第10課 芸術や科学における教育 12月5日
暗唱聖句 「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」 詩編19:2
今週の聖句 ローマ1:18~21、詩編19:2~7(口語訳19:1~6)、詩編96:9、創世記3:6、Ⅰテモテ6 章、箴言1 章、ヨブ記38 章
今週の研究 私たちは単純に、現代医学や美術史の何らかの側面に関連する聖句をえりすぐって提供しているでしょうか。そうすることによって、私たちは実用的な教科を、私たちの複雑な世界を創造された神の驚くべき力に関連づけることができます。しかし、教科書の学習に聖書をただ組み込むことは、真の教育(救済とあがないをもたらす教育)のごく一部にすぎません。
私たちは今週、キリスト教の視点と世界観からいかに芸術や科学を教えることができるのかということに関するいくつかの原則に目を向けます。
火曜日:Ⅰテモテ6:20 で、「不当にも知識と呼ばれている」ものをパウロがいかに牽制しているかに注目してください。彼は異なる状況の中で働いていましたが、その原則は今でも適用可能です。つまり、現代だけでなく、人類史を通じて、まったく誤っていたあらゆる情報、あらゆる教え、あらゆる信仰について、考えてみてください。確かに、人間は間違った教えの専門家になりえます。
ほぼ2000 年の間、この世の最も優秀な人たち、専門家たちは、地球が宇宙の中心にあり、あらゆる恒星や惑星は、完全な円軌道で地球の周りを回っていると信じていました。この考えを強化するために、非常に複雑な数学や科学が用いられましたが、ほとんどすべての細部において、それは間違っていることがわかったのです。それゆえ、この人たちは間違った教えの専門家であり、このような教えはまさに「不当にも知識と呼ばれている」ものであったと、私たちは言うことができます。
水曜日:芸術や科学の学生たちは、知識を獲得し、学業において優秀であろうとして自分の才能を用います。こういった学科の教師たちも同様です。私たちが芸術的才能を発揮し、科学的に飛躍できるのは、知識と能力のおかげなのです。
しかし、キリスト教的観点から見るとき、芸術や科学の知識は、もし是非や善悪や真偽の違いを知ることがそこに含まれていないのなら、いったい何を意味するのでしょうか。例えば、すばらしい技術や能力を持つことと、道徳的な生活や正しい生き方をすることが同等視できないことは、世界で最も偉大な芸術家と見なされる人たちの人生について少し読みさえすれば、わかります。生物学的、あるいは化学的大量破壊兵器の製造に携わった偉大な科学者たちは、高度な教育を受け、類まれな才能に恵まれていたかもしれませんが、彼らの仕事の成果は何でしょうか。先に述べたとおり、知識それ自体は、必ずしも良いものではないのです。
木曜日:先にも述べたとおり、残念ながら多くの科学は、無神論的かつ物質主義的前提に基づいてなされています。これはつまり、科学者が最高に美しいものや最高に複雑なものを、あるいはその両方を見つめながらも、それは偶然生じたものであって、事前の計画も意図もその背後にはないと主張するということです。実際、科学がいつも主張するのは、こういうことです。あらゆる美しさと複雑さの中にある地球上の生命は、蝶から人間に至るまで、何十億年も昔に化学物質が単純な命をたまたま形成し、突然変異と自然選択を通して、今日、生き、動き、呼吸するあらゆるものに進化した結果以外の何物でもないと説明されます。
現状の科学は、超自然的創造主という考えは「非科学的」であると主張します。なぜなら、それは科学的に確かめることができず、それゆえ科学が扱えない概念であるから、というのです。この前提は、科学そのものが教えていることではなく(実際、科学は反対のことを―この世界のあらゆる美も複雑さも、確かに創造主を指し示していると―教えているように思われます)、科学者自身によってこの学科に押しつけられた哲学的見解です。
しかし問題は、神がすべてのものを創造されただけでなく、すべてのものを維持しておられると聖書が教えていることです。これは、キリスト教の真の科学教育が、一般の科学の主張することとは根本的に異なる前提でなされなければならないことを意味します。とりわけ起源に関しては、避けがたく、衝突が起きるでしょう。
今週の学びを通して教えられたのは、科学や芸術は研究の成果が結実したものですが、その根底にあるものをしっかりと見つめることが大切ではないでしょうか。それを教えるのが教育なのです。そして土台をしっかりと据えることで、できあがったものを正しく用いることができるのです。その土台は、神さまによって、いのちを含めて世界が創造されたのか、それともたまたま偶然をくりかえしてできあがったものなのか、それぞれの視点に立つことで、仮に同じ答えがであっても用い方はまったく異なって行きます。
二番目は、現代科学の結果を尊重することは大切ですが、それが絶対ではないのです。わたしたちは謙虚でなければなりません。100年前に正しいと思われていたことが、現在ではまったく別の結果になっているものはたくさんあります。もちろん変わっていないものもありますが。わたしたちが見えているものは、決してすべてではないことを謙虚に見つめる時に、もっと深いものに出会うことができるのではないでしょうか。ほんとうの答えは天国で神さまに教えていただくしかありません。また神さまは聖書を通して、その一部を示してくださっています。聖書と一致する答えを見つけることも大切です。