第8課 教育とあがない 11月21日
暗唱聖句
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
Ⅱテモテ3:16
今週の聖句
創世記1:26、27、イザヤ11:1~9、Ⅱテモテ3:14~17、列王記上5:9~14(口語訳4:29~34)、ヨハネ14:16、17、Ⅰコリント2:1~16
今週の研究 実際のところ、聖書物語は基本的に、神を知り、神のみ心を理解するようにという招きです。確かに、神を知るために学ぶことは、神の恵みに対する私たちの最も大切な応答でしょう。私たちはお金を出してそのような恵みを得ることはできませんが、それを学ぶことはできます。もしキリスト教教育が、その根本において、この恵みについて教えていないとしたら、それはいったい何なのでしょうか。
日曜日:教育は、どうしたらこのようなすばらしい目標を達成できるのでしょうか。
第一に、神が人間を造られたのは交流するためであったということを、覚えておく必要があります。親が子どもたちと交流するようにです。神は、人間の親が自分にかたどって子どもを造るように(創5:1)、ご自分にかたどって私たちを造られました。その結果、(神の家族に属する)ご自分の子らとなるように私たちを育てることがおできになります。神は私たちと交流し、永続的な関係を築くことがおできになるのです。それゆえ、神のかたちというのは、二つの存在(神と人間)が心を一致させられるようにする「心のかたち」以上のものです。これは、まさに教育の中で生じるものです。最初は、家庭における親と子の間で、のちに教師が教育の働きを引き継ぐと学校で……。明らかに神は、ご自分にかたどって人間を造られたとき、ほかの多くの生き物とは区別して、私たちがよく知るこのような教育の過程を意図されたのでした。神がそうなさったのは、神のかたち(心)が私たちのかたち(心)の中に反映されるまで、神が私たちを教え、私たちが神から学ぶことができるようにするためだったのです。
水曜日:聖書によれば、知恵は、今日の私たちの教育とよく似ています。それは、人が親や教師から学ぶもの、とりわけ若いときに学ぶものですが(コヘ12:1)、実際のところ、人は一生を通じて知恵を蓄積していきます。第二に、ほとんどの場合、知恵には実際的な側面があります―例えば、冬に食べ物に困らないよう、夏の間に食糧を集める蟻ありから学びなさい(箴6:6 ~ 8)、など。
しかし、知恵は実際的であるだけでなく、理論的な側面も持っています。なぜなら、知恵は神に対する信仰によって始まり、ある種の基本原則に従うからです(箴1:7)。知恵は、私たちが他者に迷惑をかけず、他者の利益のために生きるのを助けるとともに、私たちを不運から守るのに役立ちます。さらに知恵は、今日の教育と同様、私たちが投げかけるすべての疑問に答えてはくれません。しかし知恵は、私たちに未知のことを追求させる一方、今わかっていることで私たちを満足させてくれます。そしてそれは、私たちが神を知り、神の恵みを信頼することを学ぶうえで、正しい姿勢なのです。
木曜日:偉大な教師イエスがこの地に残される生徒、つまり弟子を教育される際に、聖書における教育の注目すべき一つの原則があらわれています。弟子たちは3年半、つまり私たちが高校や大学の教育に割り当てているのとほぼ同じ期間を、イエスとともに過ごしました。高校、大学、いずれかの期間を終了するとき、人によってさまざまですが、生徒たちは自分でやってゆける準備ができたとしばしば見なされるものです。
今週は、神さまのめぐみである、あがないについて学びます。神さまのめぐみ、と言ったら、あなたは何を思い浮かべますか。いのち、太陽、水や空気などの普遍的なめぐみだけでなく、まずわたしが神さまを知ることができたことです。神さまに従うことを選ぶのはわたしです。けれどもわたしはクリスチャン家庭に生まれました。神さまを知ることができる環境に生まれたのです。このことが無ければ、きっとわたしは神さまを知ろうとはしなかったでしょう。みなさんも神さまがあなたのところへやってきて、光を与えてくださったからこそ、神さまを知ることができたのではないでしょうか。
神さまを知ること、信じることによって与えられるめぐみが、あがないです。これは御子イエスさまの十字架による身代わりの死によって無償でだれにでもあたえられるものです。わたしたちができることは、そのめぐみが与えられることを信じて従うことだけなのです。このことを信じることで、生き方が変わります。自分のいのちや能力などは自分のものではなく、神さまの賜物にわかって行くのです。
今週の暗唱聖句は、みことばの役割について書かれた聖句です。聖書は人間の幸せな生き方について書かれた神さまの言葉でもあります。信じること信頼することで、神さまのことばに従って高められ、そしてますます神さまに近づいていく、このようなくりかえしで、わたしたちは日々成長をして行くのではないでしょうか。
木曜日の学びで弟子たちが三年半の訓練をされたとありました。わたしが介護の世界に入った時に、先輩に介護職として一人前になるのには、どのくらいかかるか聞いたところ、みなさんの答えは三年でした。ふりかえって見ると、やはり三年が妥当かなと思いました。それは学校や研修などで学んでいても、現場で起こる様々なできごとの中で、緊急事態などに実際出会うのは、このくらいの時間がかかり、それによって一人前になって行けるのかもしれません。教会でも新しく神さまの子どもになった方を、このくらいの期間をかけて育てて行かなければならないのでしょうね。