第6課 偉大な教師からのさらなる教訓 11月7日
暗唱聖句
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 マルコ10:52
今週の聖句
創世記3:1~11、ローマ5:11~19、創世記28:10~17、ヨハネ1:1~14、マタイ15:21~28、マルコ10:46~52
今週の研究
言うまでもなく、それこそが、福音が普遍的であり、キリストの死が全人類のためのものである一つの理由です。私たちにどのような違いがあるにしても、確かに一つのことが私たちを結びつけています―だれもが罪深いということです。
それゆえ、真のキリスト教教育は、私たちの悲惨な状態の唯一の解決方法を指し示すものでなければなりません。私たちは今週、唯一の解決方法である私たちの偉大な教師に目を向けます。
日曜日:救済計画はアダムとエバの答えに対する神の応答である、と言うことができます。2人は、自ら犯した罪の恥と罪悪感から隠れていましたが、神は彼らを救うために来てくださったのです。私たちもまた、同じようなことをしてきましたが、イエスは私たちを救うために来てくださいました。それゆえ、「どこにいるのか」という問いは、私たちにも向けられているのかもしれません。つまり、罪や罪悪感の中で、イエスとの関係の中で、またイエスがあなたを罪から救うために成し遂げてくださったこととの関係の中で、あなたはどこにいるのでしょうか。
火曜日:園でアダムとエバに語りかけ、名もなき場所でヤコブに語りかけられた神と同じ神が、今や人間として姿を見せられたのです。新約聖書は、神がイエスによって示された、と言います。
従って、イエスはラビ(先生)ですが、彼のような人間の教師は、これまでいませんでした。なぜなら、改めて言いますが、イエスは神であられるからです。言い換えれば、神が人間の姿で人間のもとに下って来られ、その姿でラビ(先生)の働きを果たされたのです。エレン・G・ホワイトがイエスのことを、「この世が目にした最大の教師」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1886 年6 月10 日号)と呼んだのも不思議ではありません。何しろ、神であられたのですから……。
木曜日:バルティマイは、赤ちゃんの髪の巻き毛や収穫期の小麦の色を見たいと思っていました。しかし、見るということに含まれるのは、物理的に見ることだけではありません。言い換えれば、この物語は、霊的に見ることについての物語です。
これは、理解すること―偉大な教師が本当に何を言っているのかがわかること―についての物語なのです。物理的視力は一つの視力です。それは大切なものであり、イエスもそのことを知っておられます。しかし彼はまた、すべての
人が新しい、より良い人生を強く願っていることもご存じなのです。
今週の暗唱聖句が盲人バルテマイが救われた場面です。彼の物語は、わたしはとても好きです。彼はエリコの町に住んでいた盲人でした。彼は病を癒す力があるイエスという人物のことを聞いていました。彼は目は見えなかったのですが、イエスさまの働きを通して神さまを認めていたのです。そしてイエスさまがいつかやって来ると待っていました。ある日、人通りがいつもとちがいます。多くの人が集まって興奮しています。彼は道行く人に何が起こっているのかを尋ねると、「ナザレのイエスがこれからお通りになる」と聞いたのです。それを聞いて彼は、ありったけの声をふりしぼって、イエスさまに向かって叫びます。彼が癒されるためには、イエスさまの力が必要だと彼はわかっていました。そしてそのチャンスが人生に一回しかないことを知っていたのです。
そしてその声が届いた時に、イエスさまが語られた言葉が今週の暗唱聖句です。ここから先は、わたしの想像ですが、きっとバルテマイは伝道者として歩き続けたのではないでしょうか。マルコは伝道者として多くの方々が彼の言葉によって救われている、その彼の救いを聖書に記録したのではないでしょうか。
バルテマイの目は見えていませんでしたが、イエスさまを神さまの子として、しっかりと認めていました。救いを何よりも大切なものとして求めていました。わたしたちは、イエスさまによる救いの大切さをしっかりと見ていますが。その価値をわかっているのでしょうか。