安息日学校部

20200405河内アキラ解説

2020年第4期「教育―天国に備える教育」

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第5課  偉大な教師としてのイエス 10月24日

 

暗唱聖句
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。   Ⅱコリント4:6

                                           

今週の聖句
ヘブライ1:1~4、Ⅱコリント4:1~6、ヨハネ1:14、18、14:1~14、フィリピ2:1~11、Ⅱコリント5:16~21

                                           

今週の研究   地球にみ子を遣わされたとき、父なる神はご自分の顔を人間に見せるようにという使命を負わせて、偉大な教師を派遣されたのでした。それ以来、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」(Ⅱコリ4:6)を見るすばらしい特権が、私たちには与えられてきました。
偉大なるその教師が地上に向かって来られる姿を見るとき、私たちは彼から何を学ぶことができるでしょうか。

                                           

日曜日:新約聖書の記者たちは、一つの重要な考えを繰り返し強調しています―イエスが地上に来られたのは、父なる神を人類に示すためであったという考えです。かつて神の啓示は、預言者たちを通じて断片的にもたらされました。しかしイエスによって、最終的で完全な神の啓示がなされたのです。
また、人間となられたイエスは、「神の栄光の反映」(ヘブ1:3)でもありました。私たちは罪深い人間なので、神の栄光に近づくことができません。イエスはまた、「神の本質の完全な現れ」(ヘブ1:3)でもありました。ここで用いられているギリシア語は、「カラクテール」という言葉で、印を蝋ろうに押しつけてできる跡や、硬貨に刻まれた肖像の意味で用いられます。そのようにイエスは、「〔神の〕本質の完全な刻銘」(同、詳訳聖書)であられたのです。
もし父なる神を知りたいと思うなら、私たちは、偉大な教師が彼について言われたことに注意深く耳を傾けなければなりません。そして、偉大な教師にも目を向けなければなりません。父はみ子の中に見られるからです。

                                           

火曜日:パウロは、論争好きであったフィリピの信徒が、イエスと彼の受肉から学ぶことを望んでいます。もしイエスが人間の形を取り―「僕のかたちをとり、人間の姿になられ」(フィリ2:7、口語訳)―、十字架刑さえお受けになったのであれば、彼らは愛によって、どれほどもっと互いに従順であるべきでしょう。
私たちは、偉大なる教師イエスから学ぶべきことがたくさんあることに気づかされます。私たちは、イエスが地上の働きの中でお伝えになったメッセージから学べます。彼が起こした奇跡や、他者に対する彼の行動の仕方からも学びます。イエスの偉大なへりくだりに倣い、また天の栄光を飼い葉おけと進んで交換された彼の姿勢について深く考えることで(なんという教訓でしょう!)、私たちは他者との関わり方の模範を手に入れようとするかもしれません。
私たちは、ベツレヘムの飼い葉おけで、偉大なる教師から、異なる教訓を学ぶのです―神の偉大な教育と救済の働きは、自己称揚によってではなく、神の前にへりくだり、他者の僕となることによって成し遂げられるという教訓です。

                                           

水曜日:パウロはⅡコリント5:16~21 において、だれが和解をしているかについてはっきり述べています―父なる神が、ご自分と私たちとの破綻した関係を率先して修復してくださいました。そして神は、この和解の業を「キリストを通して」(Ⅱコリ5:18)なさいました。「神はキリストによって世を御自分と和解させ……られたのです」(同5:19)。
しかし、私たちは和解の喜びを単に味わう者になるだけではいけません。受肉によって、イエスは和解の働きに参加なさいました。そして私たちも、それに加わるように招かれています。神は、キリストを通して私たちをご自分と和解されました。そして今や、パウロのように私たちにも「和解のために奉仕する任務」(Ⅱコリ5:18)が与えられているのです。

                                           

今週は、偉大な教師としてのキリストについて学びます。火曜日の学びで、キリストの受肉について書かれています。前にも書いたことがありますが、ある方が家で飼っている金魚が病気になってしまい、何とか薬をあげようとして金魚を捕まえようとしますが、金魚は逃げてしまいます。彼は金魚のためを思ってやっていることが伝わらない、これを伝えるためにはわたしが金魚になって水の中に入って行かなければわからないだろうと思った時に、キリストの受肉がいかに大きなことであるか理解ができたという話しを聞いたことがあります。キリストは同じように、危険のある中を、あえてわたしたち人間と同じ姿になってくださったのです。

何かをする時に、これをしたらまわりに人がどう評価してくれるだろうか、好感度が上がるだろうか、などと考えてしまう自分がいます。だれかのために良いことをしようとしても、それが自分のためにと考えている時点で、それは愛の行為ではなくなってしまうのです。そのくらい自らは現実は罪深いのです。

キリストは神さまの愛の深さを教えると同時に、真実の愛を実践することがどれだけ多くの人を幸せにするのかを教えてくださっています。わたしたちは、その姿と自らを照らし合わせて、少しずつ愛の人に変わって行けるのではないでしょうか。