第1課 エデンの園における教育 10月3日
暗唱聖句
まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか。
ヨブ記36:22
今週の聖句
創世記2:7~23、創世記3:1~6、Ⅱペトロ1:3~11、Ⅱペトロ2:1~17、ヘブライ13:7、17、24
今週の研究
主は、この最初の学校の創設者であり、校長であり、教師でした。しかしご存じのように、アダムとエバは最終的にもう1人の教師を選び、ひどい教訓を学ぶことになりました。そのようなことが、なぜ起きたのでしょうか。私たちは、教育に関するこの初期の話から、現代の私たちに役立つどのようなことを学べるのでしょうか。
日曜日:神は人間に責任を与えられましたが、人間が幸福になることも望まれました。そしてたぶん、人を幸福にする手段の一つが、責任を与えることだったのでしょう。責任が与えられ、忠実にそれを果たすことで、満足感を(幸福感さえも)覚えない人はいないからです。神は、アダムの気持ちと成長すべき部分をご存じだったので、園の世話をする仕事を彼にお与えになりました。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創2:15)。罪と死の世界しか知らない私たちには、なかなか想像しがたいことですが、その働きにはどのようなことが含まれ、アダムは自分の園の家の管理をしながらどのような教訓を学んだのでしょうか。
月曜日:創世記2:17 で、神はアダムに、もしこの木から取って食べるなら、「必ず死んでしまう」(強調筆者)と言われました。創世記3:3 で、エバはこの命令を繰り返していますが、「必ず」という言葉を省いており、それほど強く表現しませんでした。創世記3:4 で、蛇はこの言葉を言い返しますが、それは、神がおっしゃったのとはまったく反対の意味においてです。彼女の用いた言葉によってわかるように、エバは園で神から教えられたにもかかわらず、学んだことをそれほど真剣には受け止めなかったようです。
火曜日:きのうの研究で触れたように、神の明瞭な命令にもかかわらず、エバは教えられていたことを骨抜きにしてしまいました。彼女は、神から言われたことを誤解したのではなく、明らかにそれを真剣に受け止めなかったのです。エバは神が園の木々について言われたことを(正確ではないものの)蛇に繰り返しました(創3:2、3)。蛇はこの命令をよく知っており、それゆえ周到に準備して命令をねじ曲げたのです。エバの無邪気な心を食い物にしたのです。
木曜日:ペトロがⅡペト2:10 節で、権威を侮る者たちについて記していることに注目してください。今日の現状をも、なんと厳しく非難していることでしょう。私たちは教会組織として、ある程度、権威を前提にして動かなければなりませんし(ヘブ13:7、17、24 参照)、少なくとも、指導者たちが主に忠実である程度には、彼らに従うよう命じられています。
しかし、この手厳しい非難の中で、ペトロは9 節で、対比による強調をします。神は、欺くことを選んだ者たちを追放する一方、「信仰のあつい人を試練から救い出す」(Ⅱペト2:9)ことのできる力強い方であると、ペトロは言っています。試練を避けることだけでなく、神が私たちを試練から救い出してくださる方法や、ペトロが警告する「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込(む)」(Ⅱペト2:1)人たちから身を守る助けとなる方法をいろいろ学ぶこも、私たちのキリスト教教育の一部ではないでしょうか。そしてまた、権威を侮ることが非難されているのですから、私たちのキリスト教教育には、「指導者たち」(ヘブ13:7)を理解し、彼らに従う正しい方法を学ぶことも含まれているべきではないでしょうか。
アダムとエバは権威を侮った、とは言えませんが、結局のところ、彼らは権威に従わないことを選びました。しかも彼らの罪は、その権威、つまり神ご自身が彼らに言われたことをあからさまに否定することによって犯したものであり、神がそう言われたのはアダムとエバの幸福のためであったために、一層ひどいものとなったのでした。
今期は「教育」について学びます。何回か書いていますが、キリスト教教育に限定せずに、教育の目的はなんでしょうか。わたしもかつて三育幼稚園のお手伝いをしながら、このことを考えて、簡単に保護者にお話しできればと考えていました。教育の目的は、子どもが自立することではないでしょうか。自立するということは、正しいかまちがっているはさておき、生きるために必要なことを自分で判断をして、必要な糧を自分の手で手に入れることができるようになることです。
けれども、それは最低限のことで、目の前のことだけしか見えていないのかもしれません。目の前だけしか見ていないと、どちらへ進むのかわからずに、気づいたらまちがった道に入ってしまっているかもしれません。今日の一歩を教えるだけでは教育は片手落ちです。進んでいく目標も教えなければなりません。それは生きる意味を教えることにもなります。ここにキリスト教教育の役割があるのです。
日曜日の学びで、神さまは人が罪を犯す以前から人間に「責任」を与えられたとあります。自分の歩みは最終的に自分の責任で選ばねばなりません。それが自由と表裏一体なのです。正しい選びをするために、木曜日の学びで権威に従うことを教えています。権威に従うことの逆は自分の経験で従って行くことです。聖書はくりかえして謙遜であれと教えています。神さまが選ばれた権威、教会の教えに従うこと、これはわたしたちを正しい道からそれないように守ってくれるものなのです。