第11課 イエスの物語を伝える 9月12日
暗唱聖句
「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」
Ⅰヨハネ5:13
今週の聖句
エフェソ2:1~10、Ⅰヨハネ4:7~11、マルコ5:1~20、
ヘブライ10:19~22、ガラテヤ2:19、20、Ⅰコリント1:30
今週の研究
あかしとは、私たちがイエスについて知っていることを伝えることです。彼が私たちにとってどのような意味を持ち、私たちのためにどのようなことをしてくださったのかを人々に知ってもらうことです。もし私たちのあかしが、自分の信じていることの正しさや、ほかの人の信じていることの誤りを証明しようとすることばかりであれば、私たちは強い反発を受けるでしょう。もしイエスに関する私たちのあかしが、彼の恵みによってつくり変えられ、彼の愛に魅了され、彼の真理に驚いた心から生じたものであるなら、人々は、私たちの信じる真理がいかに私たちの人生に影響を及ぼしたかに感銘を受けるでしょう。変えられた人生との関連で示された真理は、とても効果があります。
月曜日:ここには、宇宙の法則である永遠の原則があります。エレン・G・ホワイトは、この原則を次のような言葉でうまく述べています。「暴力の行使は神の統治の原則に反する。神は愛の奉仕だけを望まれる。愛を命令することはできない。暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。愛は愛によってのみ目覚めさせられる」(『希望への光』676 ページ、『各時代の希望』上巻4 ページ)。私たちがキリストに献身するとき、彼の愛が私たちを通して人々に輝き出ます。キリスト教の最高のあかしは、変えられた人生です。これは、私たちが決して過ちを犯さないという意味ではありません。私たちは、本来期待されている愛と恵みの管に時折なれないかもしれません。しかし理想的には、キリストの愛が私たちの生活の中から流れ出て、私たちが周囲の人たちにとって祝福になるということを意味しています。
水曜日:もし私たちが信仰によってイエスを受け入れたのなら、彼は聖霊を通して私たちの心の中に住んでおられます。これは、私たちが神の恵みとキリストにある救いをひとたび経験したなら、それを失うことは決してないと言っているのではありません(Ⅱペト2:18~22、ヘブ3:6、黙3:5)。私たちにはいつも、神から立ち去ることを自由に選択する権利があります。しかし、ひとたび私たちが神の愛を経験し、その犠牲の大きさを理解したのであれば、私たちをこれほど愛しておられる方から立ち去るという選択をすべきではありません。私たちは日々、イエスによって与えられた恵みをほかの人に伝える機会を探しましょう。
木曜日:ほかの人の人生を変えるほどの影響力を持つ力強いあかしは、私たちがキリストのために捨てたものに焦点を合わせるのではなく、キリストが私たちのためにしてくださったことに焦点を合わせます。そのようなあかしは、私たちのいわゆる「犠牲」に重点を置くのではなく、キリストの犠牲に重点を置くのです。なぜならキリストは、持ち続けることが私たちにとって最も利益になるものを捨てなさいとは、お求めにならないからです。
金曜日:キリストについて信ずるだけでは十分でない。キリストそのものを信じなければならない。われわれを益する信仰は、キリストを自分自身の救い主として信ずる信仰、キリストの功績を自分自身のものとする信仰だけである。……
キリストの忠実さについてわれわれが告白することは、キリストを世にあらわすために天のえらばれた方法である。われわれは、昔の聖人たちを通して知らされた神の恩恵を告白すべきであるが、しかし最も効果があるのは、われわれ自身の経験によるあかしである。神の力の働きを自分自身のうちにあらわす時、われわれは、神の証人である。各個人はそれぞれ他人とちがった人生を持っており、また本質的に他人とちがった経験を持っている。神は、われわれの賛美が、それぞれ特有の個性を帯びてみもとにのぼることをお望みになる。このようなとうとい告白によって神の恵みの栄光を賛美することは、それがクリスチャン生活によって裏づけられる時、抵抗することのできない力をもって魂の救いのために働くのである」(『希望への光』847、848 ページ、『各時代の希望』中巻74、75 ページ)。
今週は、あかしについて学びます。わたしたちはいろいろなところで、宗教に限らず自分が良いと信じていることを、だれかに話します。たとえばおいしい店を見つけた、これはとても便利だ!などと。それは自分が使ってよかったものを、だれかに教えてあげて、その人にも良いことを教えてあげたいからです。
このようなこととイエスさまを同列にしてはいけないかもしれませんが、木曜日の学びにありますが「ほかの人の人生を変えるほどの影響力を持つ力強いあかしは、私たちがキリストのために捨てたものに焦点を合わせるのではなく、キリストが私たちのためにしてくださったことに焦点を合わせます。」ここではないでしょうか。わたしがイエスさまから与えていただいたもの、それを心から認めて感謝をしていなければあかしをすることができないのです。また、友人が不思議な経験をしたとします。神さまが助けてくださったと、わたしたちの目から見て感じることがあるでしょう。それをこちらから教えようとするのではなく、その人の口から「神さまが導いてくださったんだね」と言えるように導くのが大切ではないかと思います。自分が神さまに導かれたと思わなければ、まわりがどんなに気づかせようとしても伝わりません。
聖霊は、わたしたちがキリストを救い主と認めるように働き続けています。そのためにいろいろな働きをしてくださっています。今、わたしたちの教会で、このめぐみの見える化をしようと準備してます。みなさんの祈りをカードにして、そしてそれが導かれた時に、あかしを書き入れるようにしようとしています。神さまが与えてくださった、たくさんのものをしっかりと受け留める時に、わたしたちのあかしが光を放つのではないでしょうか。