第4課 祈りの力―他者のための執り成し 7月25日
暗唱聖句
「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」
ヤコブ5:16
今週の聖句
黙示録12:7~9、エフェソ6:12、ヘブライ7:25、エフェソ1:15~21、
ダニエル10:10~14、Ⅰヨハネ5:14~16
今週の研究
私たちが神を尋ね求め、ほかの人のために執り成すとき、神は私たちの心の中で働いて私たちをみもとへ引き寄せ、み国のために彼らに接触する天来の知恵を与えてくださいます(ヤコ1:5)。神はまた、私たちが見ることも理解することもできない方法で、彼らの生活に力強く働きかけ、彼らをみもとへ引き寄せてくださるのです(Ⅰヨハ5:14 ~ 17)。
日曜日:聖書は、見える世界と見えない世界の間のカーテンを取り払います。善と悪の間、義の勢力と闇の勢力の間、キリストとサタンの間には、戦いがあります。この宇宙規模の戦いの中で、神は人間の自由を尊重されます。神は意志を操作したり、良心を強制したり、決してなさいません。神は聖霊を送って、人間に神の真理を明らかにされ(ヨハ16:7、8)、天使たちはこの戦いに加わり、永遠のための影響を人々に与えています(ヘブ1:14)。神はまた、摂理による出来事を人々の人生の中に用意し、彼らをみもとへ導かれます。
しかし、神が良心を強制なさることはありません。強制は神の国に反しています。強制と、神の統治の基礎である愛の原則とは、相容れません。祈りが重要なのは、ここにおいてです。私たちが祈る前から、神は人に接触するためのあらゆることをしておられますが、神の偉大な力を解き放つのは、私たちの祈りです。神は、ほかの人のために祈ることを選択する私たちの自由を尊重し、善と悪の争闘という観点から見れば、私たちが祈るときに(祈らなかったときよりも)ずっと多くのことがおできになるのです。
私たちは執り成しの祈りという主題を扱う際に、神の働きが完全には理解できないことを謙虚に認めるべきです。しかし、そのことのゆえに、祈りが私たち自身やほかの人たちにもたらす祝福を継続的に受けることをやめてはなりません。
月曜日:効果的に魂を勝ち取る人は、祈りの人です。イエスは名指しでペトロのために祈られました。ペトロが最大の試みに遭うとき、彼のために祈っていると、イエスはペトロを安心させられました。サタンは、神の国を発展させる潜在的能力がペトロにあることを非常によくわかっており、キリスト教会におけるペトロの好ましい影響力を破壊するために最善を尽くそうと計画を立てました。しかし、ペトロが試みに遭うたびに、イエスは彼のために祈っておられ、その主の祈りは応えられたのです。救い主が私たちのためにも祈っておられることは、認識すべき、なんと感動的な現実でしょう。彼は、この執り成しの祈りの働きに加わり、ほかの人を名指しでみ座の前に引き上げるようにと、私たちを招いておられます。
私たちが粘り強く祈るのは、執り成している相手の心に触れることがまったく神頼みであると認めているからです。
木曜日:サムエルもヨブも、熱心に、心から、具体的に執り成すことが必要であると強調しています。サムエルの言葉は、極めて強いものです。「あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」(サム上12:23)と、彼は叫んでいます。「人が友のためにとりなすように、その方に、私と神様との間に立っていただきたい」(ヨブ16:21、リビングバイブル)というヨブの言葉からは、サムエルの祈りのこだまが聞こえてくるかのようです。キリストを知らない人のために神に嘆願することは、私たちの仕事なのです。
今週は、執り成しの祈りについて学びます。わたしたちは自分の願いをかなえていただくために、いっしょうけんめいにお祈りをします。お祈りは、お願いを伝えることでしょうか。ある本の中で、わたしたちは神さまのしもべではなく、神さまをしもべにしていると書かれていました。自分の思いを実現させるために神さまを用いていませんか? という問いかけでした。神さまは、わたしたちの祈りに応えてくださいます。それがわたしたちが願っているとおりに、そして思っている時にかなえられることはほとんどありません。けれども終わってみたら、最高の時に最善のものを与えてくださるのです。
数年前、父が亡くなった時に、いろいろな思いが去来しましたが、その中のひとつが「もうわたしのために祈ってくれる人がいなくなった」という思いでした。わたしは50歳を過ぎてから福祉の世界で働くようになりました。父は現役引退後、福祉の世界で働かせていただいていたので、最後までいろいろなアドバイスをしてくれました。きっと最後の最後まで心配をかけて来たと思います。父は祈っているとひと言も言いませんでしたが、祈り続けていてくれたと思います。その祈りがあったからこそ、今日まで道を外れずに働くことができました。
執り成しの祈り、それはわたしたちの愛ではないでしょうか。どうでもよいと思う人ためには祈りません。子どもは成長とともに親から離れていきます。けれども親は、子どものために祈り続けます。それは愛しているからです。離れてしまっても大切な人のためには祈ることができます。わたしは今日は、○○教会の方々のために、今日は昔の友たちのために、などといろいろなことを思い出しながらお祈りをしています。そして執り成しの祈りは、自らの限界を認めることです。わたしたちは目の前になることしか働くことができません。だからこそ、離れている愛する人のために、神さまにお祈りして執り成しをお願いします
日曜日の引用文に「神の働きが完全には理解できないことを謙虚に認めるべきです」とあります。わたしだけでなく、お祈りをしている方にも神さまが、わたしたちの思いを越えて働いてくださることを信じる祈りが執り成しの祈りなのです。