第3課 イエスの目で人々を見る 7月18日
暗唱聖句
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 マタイ4:19
今週の聖句
マルコ8:22~26、ヨハネ4:3~34、ヨハネ1:40、41、マルコ12:28~34、ルカ23:39~43、使徒言行録8:26~38
今週の研究
イエスは、魂を勝ち取る名人です。イエスが人々に働きかけられた仕方を観察することで、私たちは、イエス・キリストによる救いを人々に知らせる方法を学びます。エルサレムのにぎやかな通り、ユダのほこりっぽい道、ガリラヤの草に覆われた丘の斜面をイエスとともに旅しながら、尋ね求める魂に彼がどのように王国の原則を明らかにされたのかを、私たちは見いだすのです。
日曜日:イエスが二つの段階を踏んで行われた奇跡が、聖書全体の中に一つだけあります。ベトサイダの目の不自由な人をいやされたときです。この物語は、現代のキリスト教会にも時間を超えた教訓を与えています。それは、1 人ひとりの信者を用いてだれかをイエスのもとへ連れて来る神のご計画を具体的に説明しているのです。聖書は、「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」(マコ8:22)とはっきり記しています。ここで重要な二つの言葉は、「連れて来た」と「願った」です。目の見えない人は、自力では来られませんでした。友人たちが彼の必要を理解して、連れて来たのです。彼には大きな信仰がなかったかもしれませんが、友人たちにはありました。彼らは、イエスが目の不自由なこの人をいやしてくださると信じたのです。
新約聖書には、これとは異なるいやしの奇跡で、イエスによってなされたものがおよそ25 あります。その半数以上で、身内や友人たちが病人をいやしていただくためにイエスのもとに連れて来ています。多くの病人は、信仰を持っているだれかが彼らを連れて来なければ、イエスのところへ来ることはなかったでしょう。私たちの役割は、「紹介者」になって、人々をイエスのもとへ連れて行くことです。
火曜日:ある人がこう言いました―「人生において、何かを始める場所は、あなたがいる場所しかない。なぜなら、出発点はほかにないからだ」。使徒言行録1:8 で、イエスも同じ原則を強調して次のように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」弟子たちに対するイエスのメッセージは、はっきりしていました。あなたがいる場所から始めなさい、神があなたを置かれた場所であかしをしなさいということです。より良い機会を夢見るのではなく、あなたの周囲にいる人たちから始めてください。神の目で、あなたの一番近くにある可能性を見つけるのです!あなたは、この世で最も教養ある人、最も雄弁な人、最も才能豊かな人になる必要などありません。それらの賜物は、正しく用いられるならとても役に立つかもしれませんが、結局のところ、あなたに必要なのは、神と人々に対する愛だけなのです。もしあなたにあかしをする用意があるなら、神はそのための道を開いてくださるでしょう。
水曜日:どこへ行っても、イエスは霊的な可能性をご覧になりました。ありえない状況の中でも、神の国の有力な候補者を見いだされたのです。私たちはこのような能力を「教会成長の目」と呼びます。教会成長の目とは、イエスがご覧になったように人々を見る、訓練された感受性のことです。その感受性には、「教会成長の耳」も必要です。この耳は、私たちの周囲にいる人たちの暗黙の必要に耳を傾けることと関係しています。たとえ彼らがはっきり言いあらわさなくても、この耳は、自分が持っていないものに対する彼らの心の願いを聞き取るのです。聖霊は人々の生活の中で働いておられますが、その働きにあなたがもっと敏感になれるよう主に求めてください。神がもうひとたびあなたに触れてくださり、あなたの信仰をほかの人に伝えるために日々目の前に与えられている霊的な機会を見いだせるよう目を開いてください、と神に祈りましょう。キリストをほかの人に伝えたいという意欲を、神に求めてください。そうすれば、あなたは生涯、最高に胸躍る旅をすることになるでしょう。人生がまったく新しい意味を持ち、これまでに味わったことのない満足感と喜びを、あなたは得るでしょう。魂のために働く者にしか、その働きがもたらす満足感はわかりません。
今週は、イエスが人々に働きかけられた仕方を観察することで、私たちは、イエス・キリストによる救いを人々に知らせる方法を学びます。日曜日の学びで、イエスさまの奇跡によって癒された人の半数以上が、誰かによって導かれているのです。わたしの父は青年時代に、取引先の方がアドベンチストで、その方に誘われて教会に通うようになりました。自分から教会の門を叩いて来られる方もいます。けれども友だちに誘われて、という方も多くいらっしゃいます。今期の学びは、その役割について学んで行きます。
先週の学びに書かれていたゲラサ人の地で、悪霊から救われた男に、イエスさまはその地に残って伝道をするようにと命じられました。彼が生きているだけであかしになりました。また盲人バルテマイは、見えるようになったらすぐにイエスさまに従って行きました。(マルコ10章参照) 彼のその後については聖書には書かれていませんが、彼がエリコの街で癒された後、イエスさまはエルサレムに向かい十字架にお架かりになり、そして復活されます。おそらく彼は、その一部始終を遠くからかもしれませんが見ていたのではないでしょうか。そして聖書に名前が残っているのは、彼は「わたしが癒された、あのバルテマイ」と自らをあかししながら伝道者として働いていたのではとわたしは推測しています。
その人にふさわしい役割を与えること、それは救い主に出会ったあとに、すぐにやらなければならないことです。わたしは教会に新しい方が加わっていただいた場合、それは転入した信徒でも求道者でも同じですが、その方が楽しんで奉仕をしていただけそうなこと見つけて、役割を果たしていただくようにしています。ある信徒のご主人が教会に出席するようになりました。奥様からは「決してこちらから洗礼を勧めるようなことはせず、好きなようにさせてください」と頼まれました。いろいろお話をして行くうちに、そのご主人は写真が趣味だったがわかり、かなり高級なカメラをたくさん持っているような方でした。そこで何かの行事の時に、そっと写真を撮ってくださいませんかとお願いしたら、喜んでいっしょうけんめいに働いてくださいました。彼は、その後も教会に出席し続けて10年以上たってから洗礼を受けたと聞きました。だれでも、自分が参加している集まりで居場所がほしいものです。そして居場所を見つけることができたら、その方は教会の一員となってくださるのです。