安息日学校部

20200206安河内アキラ解説

2020年第2期「聖書をいかに解釈するか」

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第6課 解釈はなぜ必要なのか 5月9日

暗唱聖句
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 ヘブル11:6

                                           

今週の聖句
ルカ24:36~45、Ⅰコリント12:10、14:26、使徒言行録17:16~32、 ヨハネ12:42、43

                                        

今週の研究
聖書を読むことは、聖書を解釈することをも意味します。しかし、私たちはいかに聖書を解釈すればよいのでしょうか。どのような原則を用いればよいのでしょうか。例えば、そこに見いだすさまざまな種類の文書をどう扱うべきでしょうか。私たちが読んでいる箇所は、たとえ話、預言的象徴的な夢、歴史的物語のどれでしょうか。聖書の文脈に関するこういう重要な疑問への答えには、解釈という行為そのものが含まれています。

                                          

日曜日:まっさらな心で聖書の言葉に向かう人はいません。聖書を読む人、学ぶ人はみな、解釈の過程に避けがたく影響を及ぼす特定の歴史と個人的経験を伴って聖書に向かいます。弟子たちでさえ、当時の期待に基づいて、メシアとはどういう人で、どういうことをするはずだという特定の考えを持っていました。弟子たちの強い確信が聖句をはっきり理解する妨げになりましたが、そのことは、彼らがイエスと、イエスの人生、死、復活にまつわる出来事をしばしば誤解した理由を説明するのに役立ちます。

しかしありがたいことに、私たちが偏見のない正直な心で聖書の言葉を読むとき、聖霊が私たちの限られた観点や前提を広げ、矯正することがおできになります。聖書は、非常に異なる背景を持つ人々が神の言葉を理解できると、また聖霊が私たちを導いて「真理をことごとく悟らせる」(ヨハ16:13)と、繰り返し断言しています。

                                           

水曜日:説得力のある証拠にもかかわらずイエスを拒絶した宗教指導者たちを、軽蔑の目で振り返ることは容易です。しかし私たちは、御言葉に関して同じような態度をとらないように自ら注意する必要があります。

罪が私たちと神との関係を根本的に変え、引き裂き、破壊したことは、疑問の余地がありません。罪は人間存在のあらゆる側面に影響を及ぼしています。罪はまた、聖書を解釈する私たちの能力にも影響しています。私たち人間の思考過程が容易に罪深い目的のために用いられるだけでなく、私たちの思いや考えは、罪によって堕落したので、神の真理に閉じてしまっているのです。この堕落は、次のような特徴として私たちの思考の中に見いだされます─高慢、自己欺瞞、疑い、敬遠、不服従。

高慢な人間は、自分自身を神や御言葉よりも上に置きます。なぜなら、高慢は真理を(聖書の中に見いだされる真理でさえ)最終的に決定するものとして人間の理性を過度に重視するよう、解釈者を導くからです。このような態度は、聖書の神の権威をおとしめます。

                                           

金曜日:「み言葉を研究する時には、先入観や先天的あるいは後天的な観念を、研究の門口に置いて来なさい。自分の意見を擁護するために聖書を研究するのでは、真理に到達することができません。そうした考えは門口に置いて、砕けた心で入って行き、神がお語りになる言葉に耳を傾けなさい。

キリストの足もとに座り、謙遜な心で真理を求め、キリストについて学ぶときに、み言葉を理解することができます。聖書研究に自信のある賢い人に向かって、キリストは、救いの知恵を得たいならば柔和で心の謙遜な者になりなさいと言われます。

                                           

わたしたちは聖書を読む時に、必ず解釈をします。それは聖書は人間の生き方の基本的なことを書いていますから、これを21世紀に生きるわたしたちの歩みにあてはめねばなりません。またわたしたちは文化的な背景を持っています。それが聖書を読む時に妨げになることもあります。その例として日曜日の引用文でキリストの弟子たちことが書かれています。彼らはキリストが、ユダヤを解放する政治的な救い主との考えを捨てきれずにいたため、キリストの言葉を正しく理解できませんでした。

水曜日と金曜日の引用文では、聖書の解釈する時に気をつけなければならないことは「高慢」であると書かれています。自分の歩みをふりかえると、うまく行っている時や、自分がやっていることに自信を持っている時などに、大きな失敗をしています。そこに至る途中に見逃していたり、気づかなかったことが失敗一因となっていることがあります。誇り高ぶってはいなくても、自分の考えを中心に聖書を読んでいると、神さまの声を聴き洩らしてしまうのです。

聖書を読んで解釈をする時に、自分たちの考えの裏付けのために聖句を探していないでしょうか。聖書を読む目的は、神さまからの声に耳を傾けることです。そのために聖書を通読することがとても大切なのです。家の中で過ごすことが多いこのごろ、聖書や証の書から、静かに神さまの声を聴いてください。