第5課 聖書のみ-ソーラ・スクリプトゥーㇻ 5月2日
暗唱聖句 「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 ヘブライ4:12
今週の聖句
Ⅰコリント4:1~ 6、テトス1:9、Ⅱテモテ1:13、マルコ12:10、26、 ルカ24:27、44、45、イザヤ8:20
今週の研究
私たちは今週、「ソーラ・スクリプトゥーラ」について、これまで以上に詳しく考えるでしょう。私たちは、「ソーラ・スクリプトゥーラ」が神の言葉の適切な理解に不可欠な聖書解釈の基本原則を意味することを学びます。プロテスタントである私たちは、究極的な教理上の権威として聖書を擁護しなければなりません。
日曜日:セブンスデー・アドベンチストは当初から、自分たちが聖書の民であると、つまり聖書を信じるクリスチャンであると考えてきました。聖書のみ(ソーラ・スクリプトゥーラ)という聖書の原則を支持するために、私たちは聖書の比類なき権威を認めます。聖書だけが私たちの神学の支配的基準であり、人生と教理の究極の権威です。宗教的経験、人間の理性、伝統といったほかの諸要素は、聖書に従属しています。実際、「ソーラ・スクリプトゥーラ」の原則は、教会とその解釈への依存から聖書の権威を守ることを目的とし、聖書を解釈する基準が聖書の外からやって来る可能性を排除しました。
月曜日:聖書に内在する一貫性、つまり神の霊感に由来する一貫性があるからこそ、聖書は聖書それ自身を解釈するものとして機能することができます。もし聖書の教えに全体的な一貫性がなかったとしたら、いかなる問題に関する教理においても一貫性を見いだせなかったでしょう。聖書に一貫性がなければ、教会は真理と誤りを区別したり、異端を拒絶したりする手段を持たないでしょう。また、懲戒処分を行ったり、神の真理からの逸脱を矯正したりする根拠を持たないでしょう。一貫性がなければ、聖書は説得する力や解放する力を失うでしょう。
聖書記者たちは、聖書が首尾一貫した統一体であり、その中で大きな主題が展開されていると考えました。旧約聖書と新約聖書の間には不一致がありません。新約聖書は、新しい福音や新しい宗教を含んでいるのではありません。旧約聖書は新約聖書の中で明らかにされており、新約聖書は旧約聖書を土台にしています。このように、旧新両約聖書は、互いに光を照らし合うような相互関係にあるのです。聖書の一貫性はまた、私たちが聖書のある主題を研究するとき、単独の言葉にだけ基づいて自分たちの教えを作り上げたりするのではなく、聖書全体(「トータ・スクリプトゥーラ」)を考慮に入れるべきであることも意味します。
木曜日:エレン・G・ホワイト自身の見解によれば、彼女の著作物は、聖書と比べると、「より大きな光へ人々を導く小さな光」(『アドベンチスト・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1903年1月20日号、英文)でした。彼女の著作物は、真剣な聖書研究への近道でもなければ、それに代わるものでもありません。実際、彼女は次のように述べています─「あなたがたは聖書をわかっていない。もしあなたがたが、聖書の基準に達したい、クリスチャンとして完全の域に達したいという願いを持って神の言葉を研究していたなら、証の書を必要としなかっただろう。霊感を受けた神の書物、神がわかりやすく直接的なあかしによってあなたがたに伝えようとなさった書物に習熟することを、あなたがたが怠ったからである」(『教会への証』第2巻605ページ、英文)。
そのため、エレン・G・ホワイトの著作物は、正しく評価されるべきです。それらは、聖書記者たちが受けたのと同じ霊感を受けていますが、その機能は、聖書の機能とは異なります。彼女の著作物は聖書に追加されるものではなく、聖書に従属するものです。彼女は、自分の書いたものが聖書の代わりになることをまったく意図していませんでした。それどころか、信仰と宗教的実践の唯一の基準として聖書を高く掲げていたのです。
今週は、プロテスタント教会「聖書のみ」を信仰の基礎としていることについて学びます。先週も書きましたが、聖書を人間の理性で理解できるようにした解釈をして、それが歴史を通して様々な伝承などになって、それが聖書の外からの基準となってしまっていることがあります。けれどもわたしたちは聖書を信仰と行為の唯一の基準としています。それは聖書が神さまの言葉だからです。
そのために重要なのは、聖書の一貫性です。月曜日の引用文にも書かれていますが、聖書を書いた人はたくさんいますが、聖霊の導きを受けて書かれて、編纂、翻訳されたきたのです。一貫したものとなったのは聖霊の導きであり、聖書が神さまの言葉だからです。新約聖書に旧約聖書が数多く引用されています。それは新約聖書が新しい教えではなく、一貫しているからこそ、旧約聖書の言葉が引用されているのです。
最後にE・Gホワイトの著作の役割をどう考えるか、これはとても大切なことです。木曜日の引用文をよく読んでください。聖書の代わりに与えられた書物では決してありません。わたしたちを聖書に向ける本なのです。証の書を読むと、実にたくさんの聖句が引用されています。こんなみことばがあったのかと教えられることがたくさんあります。
わたしたちの中で、証の書の全体を見るのではなく一部分だけを強調して用いたりしていないでしょうか。証の書を高く掲げ過ぎてもいけないし、不必要のものと読まないことはもっと良くないことです。証の書が無ければ、アドベンチスト教会は、全世界へ宣教する教会にはなれなかったでしょう。正しい役割をしっかりと理解して、わたしたちに与えられた小さな光を大切に用いて行きましょう。