第4課 イエスと使徒たちの聖書観 4月25日
暗唱聖句
そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。 イザヤ8:20
今週の聖句
マルコ7:1~13、ローマ2:4、Ⅰヨハネ2:15~17、Ⅱコリント10:5、6、
ヨハネ5:46、47、7:38
今週の研究 自分たちの信じていることを裏づけるために聖書を用いないキリスト教会はありません。しかし、神学における聖書の役割と権威は、すべての教会で同じわけではありません。これは重要でありながらも難しい問題です。私たちは、聖書の解釈に影響を及ぼす五つの有力な源(伝統、経験、文化、理性、聖書そのもの)を研究することによって、この問題を探っていきます。
日曜日:神の生ける言葉は、その言葉に対する敬虔で忠実な態度を私たちの中に生み出し、この忠実さが、何らかの伝統を生み出します。しかし、私たちの忠実さは、常に生ける神に向けられねばなりません。この神が、書かれた神の言葉〔聖書〕の中に御旨を啓示されたのです。それゆえ聖書には、人間のあらゆる伝統に優先する比類なき役割があります。聖書はどんな伝統よりも(たとえ良い伝統であっても)高く上にあるのです。私たちが神や御言葉と交わる経験から生じる伝統は、聖書という物差しで絶えず吟味される必要があります。
水曜日:私たちのあらゆる知識は感覚的経験に基づいているという考えとは対照的に、もう一つの見方は、人間の理性を知識の主因とみなします。合理主義と呼ばれるこの見方は、真理は感覚的なものでなく、知的なものであり、理性によって得られると考えるのです。言い換えれば、確かな真理は存在し、私たちの理性だけがそれを直接的に把握できるということです。この見方は、人間の理性を真理の基準や規範にします。こうして理性は、ほかのあらゆるものがひれ伏す新しい権威になりました。その「あらゆるもの」の中には、教会の権威も、さらに劇的なことに、神の言葉である聖書の権威も含まれています。人間の理性にとって自明でなかったすべてのことは切り捨てられ、その正当性は疑問視されました。このような態度は、聖書の大部分に影響を及ぼしました。あらゆる奇跡と神の超自然的な業(例えば、肉体を伴ったイエスの復活、処女降誕、6日間の天地創造など)は、もはや真実であるとも、信頼できるとも考えられていません。
木曜日:「聖霊は、聖書を通して心に語り、真理を心に印象づける。こうしてみたまは誤りをばくろし、それを魂から追い出される。キリストが選民をご自身に心服させられるのは、真理のみたまが神のみことばを通して働くことによってである」(『希望への光』1028ページ、『各時代の希望』下巻156ページ)。聖霊は神の言葉に置き換えられる存在と理解してはいけません。むしろ、聖霊は私たちをキリストへ引きつけるために、聖書を通して、また聖書と調和して働き、そうすることで聖書を真の聖書的霊性の唯一の基準にされます。聖書は健全な教えを提供するとともに(Ⅰテモ4:6参照)、神の言葉として信頼でき、全面的に受け入れるに値します。聖書を批判することは、私たちの務めではありません。むしろ神の言葉に、私たちと私たちの考えを裁く権利と権威があるのです。何しろ、聖書は神御自身の言葉だからです。
聖書のみならず、いのちの存在など、人間の理解できないものこの世界にたくさんあります。人間はしばしば、その不思議を理性で理解できる答えを見つけようとします。その中のひとつは進化論ではないでしょうか。一週間などで地球ができたのではなく、長い時間をかけてできあがってきた。生命の起源について、進化論の方が人間の納得できる答えかもしれません。聖書の解釈にも、同じような考えが加わった書物を見ることがあります。
伝統や文化、これを無視して宣教は進みません。日本のキリスト教会において伝統や文化の影響を受けていることの実例は葬儀ではないでしょうか。これほど地域差があるものはありません。例えば北海道では告別式の朝に、写真屋さんを呼んで祭壇の前で家族写真を撮影します。また静岡県では参列者が全員火葬場へ行き、お骨を拾います。聖書は葬儀の方法については教えていません。聖書の教えに反していない限り、地域の伝統や文化に従って宣教をすることは大切です。
木曜日に聖霊について書かれています。聖霊は、わたしたちに多くのことを気づかせてくださいます。けれども霊の働きは目に見えない不思議な働きです。悪霊が天使のような働きをしたら、わたしたちに見分けることができるでしょうか。ヨハネ第一の手紙には、このような悪霊の働きについて注意するように警告されています。イエス・キリストを告白しない霊は反キリストと見分け方法を教えています。(ヨハネ第一 4:1~3)
聖書を信じること、それは天地を創造された神さまの力を信じることです。それは人間の理性を越えて理解できないこともあるかもしれません。けれどもそれができるからこそ神さまではないでしょうか。