第8課 荒海から天の雲へ 2月22日
暗唱聖句 天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/ その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。 ダニエル7:27
今週の聖句 ダニエル7章、Ⅱテサロニケ2:1~12、ローマ8:1、マルコ13:26、
ルカ9:26、ルカ12:8、Ⅰテモテ2:5
今週の研究 私たちの今週の主題であるダニエル7章の幻は、ダニエル2章の夢と似ています。しかしダニエル7章は、2章で明らかにされたことをさらに発展させているのです。
上記の描写は、極めて象徴的なこの幻の背景となっている聖書の比喩的表現を示しています。幸いなことに、幻の重要な細部のいくつかは天使が説明しているため、私たちはこの驚くべき預言の大まかな輪郭をつかむことができます。
火曜日:旧約聖書は、幕屋や神殿からの裁きの行為について何度か記していますが、ここで言及されている裁きは異なります。これは、小さな角だけでなく、いと高き方の聖者ら(最終的に王権を受け継ぐ者たち)にも影響する宇宙規模の裁きです。
ダニエル7章は、その裁きを説明したり、裁きの最初や最後の詳細を伝えたりしていません。しかし、その裁きが神と神の民に対する小さな角の攻撃の結果として開かれていることを示唆しています。従って、ここで重要なのは、宇宙規模の裁きの開始を強調することです。ダニエル8、9章から(来週の研究を参照)、裁きの開始時間や、この裁きが天の贖罪日における天の聖所の清めに関係しているという事実を学ぶでしょう。ここでの教訓は、神の民にとって益となる再臨前審判が確実にあるということです(ダニ7:22)。
木曜日:「いと高き者の聖徒ら」(口語訳)とは、神の民の称号です。彼らは小さな角によってあらわされる勢力によって攻撃されます。彼らは、神の言葉に忠実であり続けることを主張するので、教皇が支配する時代に迫害されます。クリスチャンは(第四の獣であった)異教ローマ時代にも迫害されましたが、ダニエル7:25で言及されている迫害は、小さな角による聖徒らへの迫害です。この角は、ローマの異教段階が終わったあとに初めて生じます。
しかし神の民は、この世の勢力による抑圧にずっとさらされるわけではありません。神の国がこの世の国に置き換わるからです。興味深いことに、実際の幻の中では、人の子が「権威、威光、王権を受け」(ダニ7:14)ていますが、天使の説明によれば、王権を受けるのは「聖徒ら」(同7:18、口語訳)です。ここには矛盾がありません。なぜなら、人の子は神と人類とに関係しているので、彼の勝利は、彼が代表する者たちの勝利だからです。
金曜日:歴史をざっと見るだけで、北方からのゲルマン人による攻撃で生じたローマ帝国の滅亡後、ローマ司教が三つのゲルマン部族の崩壊を巧みに利用して、西暦538年以降、自分をローマにおける唯一の権力として確立したことがわかります。彼はこの過程の中で、ローマ皇帝の制度的、政治的機能をいくつか採用しました。そこから教皇制が登場し、1798年にナポレオンによって退位させられるまで、世俗的、宗教的権力を与えられたのです。ナポレオンによる退位はローマを終わらせたのではなく、ローマによる迫害の特定の段階を終わらせたにすぎませんでした。教皇は、キリストの代理人であると主張しただけでなく、聖書に反する教理や宗教的習慣をいくつも導入しました。煉獄、改悛、秘密告解、日曜日への安息日の掟の変更などは、教皇制によって導入されたさまざまな「時と法」の変更の一部です。
今週は、ダニエル書7章について学びます。この夢はベルシャザル王元年とあるので、5章のバビロンの滅亡前に、この夢を見ています。8章はその2年後、9章でダリヨスの時代の夢となります。そしてこれまでは、ネブカデネザル王が見た夢を解き明かしていますが、ここからはダニエルに神さまが夢や幻を通して語りかけています。
最初に四頭の獣が出てきます。今回の学びで気づいたのですが、獅子のようでとあります。どの獣も○○のようでとなっています。たしかに獅子に羽がついていたら獅子のようなと書くでしょうね。最後の第四の獣はダニエルの語彙の中にはなかった生き物だったのでしょう。今だったらゴジラのような怪獣と書くかもしれません。
今回の引用文は、第四の獣と、その後に出てくる小さな角に関するものを引用しました。けれども大切なことは、小さな角が何をしたかではなく、火曜日の引用文にあるように、最後に神さまは裁きを行って小さな角の働きに勝利されるのです。この流れが確かなことを預言が歴史上で成就することで、わたしたちは信じなければなりません。その裁きを通じて救われるのは、正しい組織にいるのではなく、神さまと正しい関係になり、まことの礼拝をしている人たちが救われるのです。
1798年で教皇制度は大きな打撃を受けましたが、彼らが変えてしまったことが、今でもプロテスタント教会の中にも残っています。そして今日、また再び大きな力を持ちつつあります。預言は終わりの時が近いことを語りかけています。