安息日学校部

20190412安河内アキラ解説

2019年第4期「エズラ記とネヘミヤ記」

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第12課 悪しき決定に対処する 12月21日

暗唱聖句   「言った、『わが神よ、わたしはあなたにむかって顔を上げるのを恥じて、赤面します。われわれの不義は積って頭よりも高くなり、われわれのとがは重なって天に達したからです』」  エズラ9:6

                                           

今週の聖句    ネヘミヤ記13:23~25、申命記7:3、4、Ⅱコリント6:14、                                          エズラ記9章、10章、Ⅰコリント7:10~17

                                           

今週の研究   エズラとネヘミヤは、イスラエルの異民族との結婚状況をどのように処理するでしょうか。彼らはそれを放っておくのでしょうか、それとも立ち向かうのでしょうか。私たちは今週、この問題に対する2人の指導者の取り組み方について考えます。

                                           

日曜日:この子どもたちはアラム語(捕囚時代に使われていた言語)やヘブライ語を話さず、聖書の教えを理解できませんでした。これは大きな問題でした。なぜなら、神の啓示の知識がゆがめられたり、消え去ったりする可能性があったからです。書記官や祭司たちは、人々に説教をはっきり伝えるためにたいていアラム語でトーラーを説明しました。しかし母親たちは、アンモン、アシュドド、モアブの出身であり、また彼女たちが子どもたちの世話をおもにしていたので、子どもたちが父親の言語を話せなかったのも驚くに当たりません。私たちが話す言語は、私たちのものの考え方に関する情報を与えてくれます。なぜなら、私たちはその文化の語彙を用いるからです。聖書の言語を失うことは、彼らの特別な自己認識を失うことを意味したでしょう。それゆえ、ネヘミヤにとって、家族が神の言葉との関わりを失いつつあること、そして結果的に、ヘブライ人の主、生ける神との関係を失うことは、思いも寄らないことでした。

                                           

月曜日:異教徒と結婚してはならないという命令は、民族主義的なものではなく、偶像礼拝に関するものでした。聖書の登場人物は、イスラエル人でない人たちと結婚しています。モーセはミディアン人の女ツィポラと結婚しましたし、ボアズはモアブ人のルツと結婚しました。そうではなく、これらの命令における結婚の問題は、異宗教の人や信仰のない人との結婚に関係しているのです。問題は、エズラやネヘミヤの時代の人々が神を信じる人との結婚を選ばなかったことでした。旧約学者リチャード・M・デイビッドソンは、『ヤハウェの火』という本の中で、「エデンにおける結婚の計画は……霊的信仰やそのほかの重要な価値観において、2人の伴侶が相補的に一体であることを要求した」(316ページ、英文)と述べています。この物語に登場する異教徒の妻たちは、偶像礼拝を捨てることを選びませんでした。それゆえ、たぶんネヘミヤは、人々の選択に怒るよりも悲しんだのでしょう。彼にとって、このことは神への真の献身の欠如を示していたからです。聖書は、私たちが常に神を土台とし、私たちの幸福が最大となるように意図された実践上の原則を与えています。同様に、釣り合いの取れた結婚をしなさいという命令は、より良い人生を私たちにもたらし、互いに神に献身することを促す助けとなるはずのものでした。

                                           

木曜日:信仰の異なる者同士の結婚をどうするべきかに関して、聖書には詳しい命令がありません。ですから、そうした伴侶から離れることが正しい解決方法だとか、エズラの記事に基づいて、そうすることを推奨する必要があるなどということは、まったく、この聖句の意図や原則に反します。エズラやネヘミヤの状況は、一度限りのことであり、「主の御旨」(エズ10:11)でした。なぜなら、イスラエルの未来とその全共同体の礼拝とが危機に瀕していたからです。彼らは生ける神の礼拝者としての自己認識を失いかけていました。

聖書は明らかに、不釣り合いなくびきの結婚をやめるよう勧告していますが(Ⅱコリ6:14)、異なる選択をした人たちに及ぶ恵みに関する聖句も見いだすことができます。神は、信者でない人と結婚した人たちが御自分と伴侶に対して忠実であるように力づけてくださいます。神は、私たちが御旨に反する選択をするときでさえ、私たちをお見捨てになりませんし、私たちが助けを求めるとき、助けてくださいます。これは、私たちがしたいことを何でもし、それにもかかわらず、神に祝福を期待できるという意味はありません。私たちが必要と謙遜な心をもって神のもとへ行くとき、神はいつも聞いてくださるということです。神の恵みがなければ、私たちの中のだれにも望みはありません。なぜなら、私たちはみな罪人だからです。

                                           

今週は、エズラ記とネヘミヤ記の一番最後の部分を学びます。異民族との結婚という、とても難しい問題に二人の指導者が対処して行ったのかについて学びます。

日曜日の学びで、異民族との結婚によって言葉や文化が失われる危険があることが書かれています。わたしはかつてブラジルで日本語教えていました。子どもたちを見ていると、お母さんが日本語を話せる人の方が、日本語の能力が圧倒的に高いことがわかります。そして現地の日本人のみなさんが、若者に日本人としての文化などを継承するために、言葉がとても大切なことをくりかえして話していました。なぜなら彼らはブラジルで生まれてポルトガル語の社会で育っているからです。日本語が無くても生活ができます。バビロン捕囚のユダヤ人たちも同じ状態でした。彼らは聖書の言葉を通して神さまの言葉を聞くことができなくなりそうになっていました。

月曜日の学びで、異教徒との結婚について書かれています。この問題がとても難しい問題で、エズラ記もネヘミヤ記も巻末に書かれているところを見ると、どちらの指導者も改革に難航してきたことが伝わってきますね。この家庭における問題は、いつの時代にもあります。そしてこれはとても難しい問題であることにかわりません。そのために木曜日の学びをよくお読みください。それぞれの場所において、祈りつつ最善を求めて行くこと、そしてできることをして行きたいものですね。