第7課 私たちの赦しの神 11月16日
暗唱聖句 「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」箴言28:13
今週の聖句 ネヘミヤ記9:1~3、ダニエル9:4~19、ネヘミヤ記9:4~8、
コロサイ1:16、17、ネヘミヤ記9:9~37、ローマ5:6~8
今週の研究 普通なら私たちはまず告白し、それから祝うかもしれませんが、おそらく私たちの生活の中で神を祝うことを第一にすべきなのでしょう。何しろローマ2:4が、私たちを悔い改めに導くのは「神の憐れみ」である、と述べているからです。私たちは、「神の憐れみ」のゆえに神を称賛し、祝宴を催すべきですが、その一方で、自分が赦され、清められ、再創造されるために神を必要としていることも思い出すべきです。
月曜日:祈りの最初の数節は、①創造主、②支え主、③約束の守り主としての神に焦点を合わせています。人々はまず、神がどのようなお方であるかを思い出します。神は私たちを創造し、支え、常に約束を守ってくださる忠実なお方です。その事実を覚えていることは、私たちの人生を正しく捉とらえ、最も困難な状況においても、すなわち神が私たちから遠く離れており、私たちの問題に無関心であられるように思える状況においても神を信頼することを学ぶ助けとなります。
火曜日:それに加えて、神の憐れみが私たちに罪の告白と悔い改めを促すので、私たちは神の力によってその罪を捨てる決心もしなければなりません。肝心なのは、イスラエルがかたくなであったにもかかわらず、神は愛情深かったという点です。イスラエルの民のために神がされたことを振り返ることで、人々は、神が彼らを現時点においても、将来においても、世話し続けてくださることを思い出しました。なぜなら、神が過去において彼らのためにあれこれしてくださったからです。だからこそ、神が人々の歴史においてどのように行動されたのかを思い出すことは、とても重要でした。彼らは、それを忘れたときに面倒を起こしたのです。
金曜日:確かに、人々は、神が約束しておられた物質的な祝福を楽しみました。その祝福は、堕落した世界の中で可能な範囲において、エデンの豊かさを思い出させるものでした。そして、それはすばらしいものでした。彼らはもともとその祝福を楽しむことになっていたのです。神は、まさに人間が楽しめるようにこの物質界を創造してくださり、(神に祝福された)古代イスラエルもそれを楽しみました。彼らの罪は、神の大きな恵みを受けて楽しんだことの中にではなく、彼らが楽しんでいた恵みの与え主を忘れたこと(エゼ23:35)の中にあったのです。祝福が、周囲の人々に神を明らかにするという目的のための手段ではなく、目的そのものになってしまったのでした。
今週はネヘミヤ書9章について学びます。エルサレムの城壁が再建されて、仮庵の祭りを祝った後、民の指導者たちは、民に悔い改めを求めました。わたしたちも同じように神さまの前に謙虚にならねばなりません。この9章では、アブラハムからの神さまの導きに感謝をしつつ、恵みに留まらず背いてしまった先祖の罪を悔いています。それは、彼らにとっては自分たちの罪が犯した罪ではありませんでした。けれども彼らも同じように律法を犯していたのでした。先祖の罪を思うときに、そこに表された神さまの導きと赦しの働きも見ることができるのです。そしてそれは同じ罪を犯している者への赦しの約束となります。
わたしたちは赦し 受けて、喜びつつ前進をするのです。金曜日の引用文の最後に注目してください。「祝福が、周囲の人々に神を明らかにするという目的のための手段ではなく、目的そのものになってしまったのでした。」神さまは、わたしたちを祝されることで、わたしたちと通して神さまのすばらしさを人々に伝わるように、昔からこの方法を取られていました。祝福を求めて与えられて喜ぶのではなく、それによって神さまをあかしして行かねばなりません。わたしたちは「赦された罪人」なのです。