第12課 慈しみを愛すること 9月21日
暗唱聖句 「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる」詩編112:4,5
今週の聖句 マタイ6:25~33、ヤコブ1:5~8、2:15、16、イザヤ52:7、
Ⅰヨハネ3:16~18、イザヤ58:1~10
今週の研究
私たちは神の愛と命令に応えて、イエスの奉仕と犠牲の光の中を生き、聖霊の御臨在によって力づけられ、導かれながら、「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩む」(ミカ6:8)ことにおいて憐れみ深く、創造的かつ勇敢でなければならないのです。
日曜日:イエスは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタ6:25)と教えられました。言うまでもなく、これらの物も大切ですが、私たちはそれらを神の国の光に照らしてみなければなりません。つまり、私たちは人生の優先順位を、現実的かつ実際的な形で見直さなければならないということです。他者を高く上げ、大事にしなさいという呼びかけが聖書の至る所にあることを認めるとき、この呼びかけは、私たちがイエスの足跡をたどろうとする際の優先事項の一つにもなります。理想的には、この呼びかけによって、私たちは自分自身よりも他者に目を向けるようになるべきです。
火曜日:寛大さは、気前の良い、大胆で、包容的な人生を送る態度です。私たちの個人的生活、社会、文化の中のあまりにも多くのものが、自分自身に目を向け、可能な限り多くを自分自身のものにするようにと促します。現実を認めましょう。ほとんどの人の初期状態は、通常、とにかく「自分」「自分」「自分」なのです。
もしそれが現実であるなら、私たちの信仰は、自己に死に、他者のためにもっと生きるように私たちをさせるでしょう。私たちの信仰は、神がこの世界とそこに住む人々をご覧になるように、その良さにおいても壊れ具合においても、私たちがそれらを思い描く助けとなります。また信仰は、可能な限り、困窮している人たちを助けようと私たちを駆り立てるのです。
水曜日:暴力的衝突は苦しみの大きな原因です。戦争で失われるものには、直接的な犠牲者や破綻した生活、(人間のほかの必要を軽減するためによりよく転用されたはずの)軍事機器に向けられた注意や資源、(「勝者」の中においてさえ)戦争の生存者や兵役体験者たちに持続する苦しみなどが含まれます。そして家庭や地域社会の中で、数えきれないほどの人生を傷つける、もっと小さな衝突もたくさんあります。従って、正義を求める熱意は、平和を実現しなさいという命令を無視することができません。
イエスの福音の中心にあるのは、平和を実現するという神の恵み深く崇高な行為、つまり罪深い人類をその創造者と和解させることです(Ⅱコリ5:18 ~ 21 参照)。そして、私たちが受ける和解が、この和解を他者にも届ける「使者」となるための手本となるのです。
クリスチャンになるとは、どのようなことなのでしょうか。これは信仰者として考え続けてきたことでした。そしてこれからも考えて行くでしょう。この問題を、いかに簡単に自分の言葉で説明をすることができるか、これは牧師の役割だと考えています。もしわたしが今、クリスチャンになるとは?と質問を受けたら、「生きる方向性を変えること」と答えるでしょう。どのようなことでしょうか。わたしはクリスチャン家庭に生まれて、子どもの時から教会に通い、キリスト教的な価値観の中で育ってきました。わたしたちの教会でしばしば議論になりますが、大人になって信仰を受け入れた方々は、生きる方向性を変えることをされて来たのではないかと思います。けれどもわたしのようにキリスト教の環境の中で育った者は、自分の生き方をそのまま継続しているのではないでしょうか。
そもそも生きる方向を変えるとはどのようなことでしょうか。この項で何回も取り上げていますが、キリストの元に金持ちの青年がやってきて「どのようにしたら天国へ入れるでしょうか」と質問に来ました。彼は自らは十戒を守っていると語っていました。その彼に対して、イエスさまは財産を処分して困っている方を助けるようにと教えました。この会話は一見かみ合っていないように見えます。青年は自らの救いのために、懸命に生きてきました。生きる方向が自分に向いていたのです。
だれでも自分のことは大切です。そして自分を認めてもらいたいと願っています。罪は、わたしたちをこのような方向に向けるようにしてしまっています。けれども神さまは、わたしたちにいのちを与えて、様々な能力を与えて、それをまわりの幸せにために使うように与えてくださったのです。
クリスチャンになるということは、日曜日の引用文にも書かれていますが、自分中心への向きを、だれかの幸せのために向きを変えることです。これは大人になってからクリスチャンになった人も、子どもの時から教会へ通っている人たちも同じではないでしょうか。