安息日学校部

20190310安河内アキラ解説

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

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第10課 福音を生きる 9月7日

暗唱聖句   「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」   エフェソ2:8~10

                                           

今週の聖句    ローマ8:20~23、ヨハネ3:16、17、マタイ9:36、

エフェソ2:8~10、Ⅰヨハネ3:16、17、黙示録14:6、7

                                           

今週の研究

それゆえ、困窮している人たちへの私たちの憐れみや同情の業が、律法主義とみなされないように。それどころか、救いに関する理解と感謝において私たちが成長するにつれて、神の愛と、貧しく虐げられている人たちに対する神の気遣いとの結びつきは、神の愛の受け手である私たちに受け継がれます。私たちは受けたのだから、与えるのです。私たちは、神が私たちをいかに愛してくださったのかを理解するとき、神がどれほどほかの人たちをも愛し、また彼らを愛するように私たちを召しておられるのかもわかるのです。

                                           

火曜日:改めて述べますが、私たちが善行を行う(貧しい人を気遣い、虐げられた人を高く上げ、空腹な人に食べ物を与える)のは、救いや神の信用を得るためではありません。私たちはみな、キリストに対する信仰によって、私たちが必要とする神の信用を得ています。むしろ私たちは、自分自身が罪人であるとともに罪の犠牲者であり、それにもかかわらず、神によって愛され、贖われていることを認めます。依然として、私たちは自己中心や貪欲の誘惑と戦いますが、神の献身的で謙虚な犠牲は、私たちの人生を変える新しい種類の命と愛をもたらすのです。

キリストの十字架に目を注ぐとき、私たちは、私たちのためにささげられた大いなる犠牲、完全な犠牲を見、それがキリストによって提供するものに何も加えられないことを自覚します。しかしこれは、キリストによって与えられたものへの応答として私たちが何もすべきではない、という意味ではありません。それどころか、私たちは応答しなければなりません。そして、愛を他者に示すこと以上に、私たちに示されたその愛に応えるより良い方法があるでしょうか。

                                           

水曜日:初期の信者たちが福音の包容性を徐々に理解したとき、彼らは他者に対する善行を、なすべき「良い」ことの一つとして単に自分たちの信仰に付け加えていたのではありません。それは彼らの福音理解の中核でした。なぜなら、彼らはそれをイエスの人生、奉仕、死において体験していたからです。彼らは、生じた問題や疑問と格闘したとき(当初は、パウロやペトロといった指導者たち個人のために、〔例えば、使徒10:9~20参照〕、やがてエルサレム会議において教会全体として〔同15章〕)、この福音が神の愛や包容性に対する彼らの理解を、また神に従うと告白する人たちの生活の中でいかにそれが実行されるべきかということへの理解を劇的に転換していたのだ、と気づき始めました。

                                           

木曜日:私たちは今期の研究の中で、聖書物語全体を通じて神が悪や貧困や抑圧を懸念しておられることにすでに注目しましたが、黙示録14:7はこれら三つの重要な要素を一つにまとめています。

「裁き」―裁き(行われるべき正義)を求める訴えは、歴史を通じて虐げられてきた人たちの再三の要求です。幸いなことに、聖書は苦しんでいる人たちの叫びを聞いてくださるお方として神を描いています。例えば、詩編の中でしばしば表現されているように、不公正に扱われている人たちは、裁きを良い知らせとみなします。
「礼拝」―ヘブライの預言者たちが書いたものは、礼拝という主題と善行という主題をしばしば結びつけています。とりわけ、神の民であると主張した人たち礼拝と、彼らが犯し続けた悪事とを比較するときにそうしています。例えばイザヤ58章において神は、最も望むべき礼拝は親切な行為と、貧しく乏しい人たちへの配慮である、とはっきり述べておられます(イザ58:6、7参照)。

「創造」―すでに触れたように、神が正義を要求されることの基礎的要素の一つは、人類という共通の家族です。つまり、私たちはみな神のかたちに造られ、神に愛されているということ、私たちはみな神の目に価値があるということ、他者の不正な利益や貪欲のために搾取されたり、虐げられたりすべきではないということです。終末時代のこの福音の宣布が、堕落した人類に神が望んでおられる救い、贖い、回復を受け入れるようにとの広範囲にわたる召しであることは、明らかなようです。それゆえ、真の礼拝と偽りの礼拝に関する問題や、迫害の中であるにもかかわらず(黙14:8~12参照)、神は、最悪の悪の中でも正しいことを支持する人たち、神の掟とイエスに対する信仰を守る人たちをお持ちになるでしょう。

                                           

先週までは、聖書の各時代において、貧しい人や苦しんでいる人を助けるようにとのメッセージが書かれていることを学びました。このような視点で聖書を見ることを、わたしたちはしていたでしょうか。そのような意味でも今期の教課はとても良い学びになりましたね。

さて、今週からは、「貧しい人、苦しんでいる人、困っている人ために働きなさい」という神さまの命令に対して、いかに生きるかについて学びます。今週の研究に書かれていますが、「困窮している人たちへの私たちの憐れみや同情の業が、律法主義とみなされないように」と注意されています。義務だから、またそれをすることによって何かを神さまから与えられるなどという、動機で奉仕の業をすべきではありません。

そして火曜日の引用文に「私たちは自己中心や貪欲の誘惑と戦いますが」とあります。神さまのみこころはわかっていても、自らの思いが先に立ってしまう弱さを持っています。そこで、わたしたちが目を向けなければならないのは、今週の暗唱聖句です。わたしたちが、神さまから恵みを受けている、そしてたくさんの祝福を受けていることを忘れてはなりません。神さまはそれをあなただけではなく、たくさんのまわりの人にも分け与えるために与えてくださったのです。福音に生きるとの題の一週間の学びですが、神さまからのめぐみの福音が、まず最初にあなたに届けられていることを土台にして、あなたの置かれた場所で神さまのみこころの実現のために何ができるのか、考えてそして実行していきたいものですね。