第9課 新約時代の教会の奉仕 8月31日
暗唱聖句 「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」 ヤコブ1:27
今週の聖句 使徒言行録2:42~47、4:32~37、マタイ25:38、40、使徒言行録9:36、
Ⅱコリント8:7~15、ローマ12章、ヤコブ2:1~9
今週の研究
ところで、イエスは大宣教命令の中で何と言われたでしょうか―弟子をつくり、バプテスマを授け、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタ28:20)。そしてすでに触れたように、イエスが私たちに命じられたことの多くは、困窮している人、苦しんでいる人、自分で自分の面倒を見ることのできない人たちを世話することと関係しています。従って、イエスの最初の弟子たちへのこれらの命令は、新しい任務、つまり彼らがそれまでに見聞きしたことのなかったものではなく、むしろイエスが彼らと一緒にすでに取り組んでおられた使命の継続であったということを、私たちは覚える必要があります。
月曜日:やがてペトロがドルカスのために祈り、神は彼女を復活させられましたが、そのことは、他者に奉仕するために献身する人の場合、人生がいつもうまくいくという保証ではありません。結局、ドルカスはすでに病気と死を体験していましたし、教会のやもめたちに仕えるように任命された最初の執事の1人、ステファノもまた、最初の殉教者になったのですから……(使徒7:54~60参照)。奉仕の人生は平たんな道ではありません。時として、それは悪路にさえなりうるのです。
しかしこの物語の中で、神はヤッファの人々に強い衝撃を与えるため、ドルカスの人生と死の双方における神の愛と力が広く認知されることをお用いになりました―「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」(使徒9:42)。
火曜日:しかしパウロは、ガラテヤ2章のこの会議についての報告の中で、異邦人の間で奉仕を続けるためにエルサレム会議から受けた指示に、もう一つの重要な要素を付け加えています―「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」(ガラ2:10)。
そして、パウロは個人的に(使徒20:35参照)、彼が奉仕をした至る所で、この重要な点に従い続けました。エルサレムの初代教会のように、あらゆる仲間の信者を受け入れるために、パウロはクリスチャン共同体のビジョンを広げたのでした。
水曜日:パウロは実際的な言葉を用いて、このような生活がどういうものであるかを説明しています。彼は信者たちに、どこにいようと、可能なときはいつでも、困難や迫害の中で忍耐深くあり、困窮している人を世話し、平和を実現する者となり、(すでに触れたように)悪や不公正に親切で応じ、善を行うことによって悪に勝ちなさい、と勧めています(ロマ12:20、21参照)。
木曜日:だれかの幸福を願うことは(彼らに神の祝福を願うことさえ)、もし彼らが寒さと空腹で苦しんでいるなら、ほとんど慰めにならないと、ヤコブは主張します。実際に食べ物や服を与えることのほうが、あらゆる気高い感情や祝福の言葉よりも、彼らに対する私たちの関心をあらわし、はっきり示すうえでずっと有益でしょう(ヤコ2:14~17参照)。ヤコブはこのことを、私たちと神との関係という観点において、信仰と行いの相互作用の一例として用いています。彼はまた、隣人を自分のように愛することに関してイエスが教えられたことも繰り返しており(同2:8参照)、この掟が日常生活においてどう守られるべきかを示しています。それが神と他者への奉仕において実行されるのは、救いを得るためではありません。なぜなら、それは真の信仰のあらわれだからです
今週は、新約の教会の時代における貧しい人への奉仕について学びます。使徒の働きの時代、ユダヤの教会から世界教会に変わって行き、伝道が進んで行きました。そして聖書には伝道の働きが中心に書かれています。けれども今期の学びにおいて、福音を実践することは貧しい人と助けることであり、神さまを信じることは自分のために活きることから、だれかの幸せのためにと生きる方向が変わることと教えられています。
月曜日の学びで、ドルカスやステファノについて学びます。彼らは神さまのために働きましたが、ドルカスは後に復活しましたが、短い生涯を終えました。正しいことをすることによって長生きをするわけではありません。神さまがすべてをお与えになり、そして取られるのです。
火曜日の学びでは、使徒の時代の教会の働きの始まりともなったエルサレム会議の決定について、貧しい人と忘れないようにと決議されていることを伝えています。使徒言行録15章に書かれている、エルサレム会議の決定事項には書かれていませんが、実際の信仰生活のために、このような教えが当然語られていたのではないでしょうか。それはエルサレム会議の議長をしたヤコブの言葉として木曜日のヤコブの手紙にも書かれています。
水曜日にも書かれていますが、彼らは迫害を受けていました。そのような中で貧しい人や苦しめられている人ために働く、これが神さまが求めている平和を実現する働きとなって行きました。