安息日学校部

20190308安河内アキラ解説

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

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第8課 「この最も小さい者」 8月24日

暗唱聖句   「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」マタイ25:40

                                           

今週の聖句    マタイ5:2~16、38~48、ローマ12:20、21、

ルカ16:19~31、12:13~21、マタイ25:31~46

                                           

今週の研究

イエスが公正な行為、親切な行為、憐れみの行為を、つまりイエスがこの地上におられたときに自らなさったような行為を私たちに勧めておられることがわかるのです。もし彼の模範に従うのであれば、私たちは、彼がなさったように他者を助けるでしょう。

                                           

日曜日:適切に用いられるとき、塩も光も、それらが加えられた状況の中に違い(変化)をもたらします。塩は味を引き出すとともに、それが加えられた食べ物を保存します。塩は、私たちが周囲の人たちのためになるべき善人の象徴です。同様に、光は闇を払い、障害物や危険を明らかにし、家や町をより安全にし、少し離れていようと航行の指標となります。暗い夜の光のように、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタ5:16)と、イエスは言われました。
光と塩、いずれの象徴も、周囲の人たちの生活に影響を及ぼし、それを向上させるという弟子の責任を私たちに指し示しています。適切に嘆き、心の純粋さを保ち、へりくだり、憐れみを示し、平和を実現し、抑圧に耐えるとき、私たちは塩であり、光なのです。それゆえイエスは、時として「過小評価されている価観」、彼の王国の価値観を具現化しなさいという呼びかけで、この説教を始められたのでした。

                                           

火曜日:しかし1人の宗教的律法の専門家は、イエスを試そうとしたとき、かなり議論されてきたその問題―「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)―を頼みにしました。それに応じて、イエスは善いサマリア人の物語を話されたのですが、律法学者の質問に対する最終的な答えは、「隣人」という言葉を定義することではありませんでした。その代わりにイエスは、「行って、あなたの助けを必要としているすべての人の隣人になりなさい」と(実質的に)言われました(ルカ10:36、37参照)。

イエスはその教えの中で、神に従う者と自称するすべての人にとって、神の召しがどのようなものであるかをはっきり示すために、1人の部外者、神に不忠実だと考えられていた人に注意を向けます。最初にこの物語を聞いた人たちと同様、私たちがイエスのもとへ行き、永遠の命を受け継ぐには何をする必要がありますかと尋ねるなら、結局のところ、彼は私たちに、行って、困窮しているすべての人の隣人になりなさい、とお教えになるのです。

                                           

木曜日:マタイ24章の全体を通じて、イエスは弟子たちの質問に直接的に答え、エルサレムの崩壊と時代の終わりに関するしるしや警告をお与えになりましたが、「目を覚まして」いる必要、再臨の約束を踏まえて正しく生きる必要を強調なさいました。マタイ25章の前半部分では、賢いおとめと愚かなおとめの物語が、予期せぬ(あるいは、遅れた)帰還に備える必要を勧めており、3人の僕の物語は、待っている間、正しくかつ生産的に生きる必要を訴えており、次の山羊と羊のたとえ話は、神の民が励むべき務めに関して一層具体的です。

イエスの言葉―私たちが他者に奉仕するとき、それは彼にしているのであるという言葉―によって、私たちの関係や態度はすべて変えられるべきです。イエスを食事に招いたり、病院や刑務所にいる彼を訪ねたりすることができるとしたら、と想像してみてください。イエスは、私たちがこのような奉仕を近隣社会の人たちにするとき、彼にそうしているのだ、とおっしゃいました。このようにしてイエスは、なんとすばらしい機会を私たちに与えておられることでしょう。

                                           

今週は最も小さい者を大切にというメッセージについて学びます。日曜日の学びに書かれている地の塩と世の光のメッセージですが、拙稿でも何回か書きましたが、塩が先に来ています。光を届ける前にその場所で無くてはならないものとなって行かねば光を放っても受け入れてもらえません。そして光はメッセージではなく、善い行いなのです。

そして火曜日のよきサマリヤ人のたとえでは、祭司やレビ人の心は自分の方に向いていました。けれどもサマリヤ人は、倒れていた弱っている方を助けるために心を向けました。

木曜日のマタイ24章では再臨とその前兆について書かれています。そうなるとわたしたちはどうしたら天国へ入れるのでしょうか。そちらへ心が向いてしまいます。けれども24章に続く25章では、最も小さな者を助ける人、自分のことではなく、小さな者へ心を向ける者こそが天国の入るためにふさわしい生き方であると教えられています。だれでも自分のことを注目して欲しいし、名声を求めています。それは自分に向けての想いです。

小さな声を無視することは簡単です。けれども神さまの子どもとして歩んでいるわたしたちは、自分への光を向けるのではなく、小さな者へ光を向けて行く、そのような歩みをすることが、神さまの愛の実現となるのです。