第5課 預言者の叫び 8月3日
暗唱聖句
人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」 ミカ6:8
今週の聖句 サムエル記上8:10~18、アモス5:10~15、ミカ6:8、創世記19:1~13、
エゼキエル16:49、イザヤ1:15~23
今週の研究
預言者が民やその指導者たちに警告した罪や悪の中で最も大きなものの一つは、民の中にいる貧しい人、乏しい人、無力な人たちを虐げることでした。確かに、偶像礼拝も悪いことですし、偽りの宗教的習慣に従うことも悪いことです。しかし、弱く貧しい人たちを利用することは、非難に値しました。
日曜日:イスラエルとユダの王たちの治世を通じて、神の応答の一つは、預言者を遣わし、神のみ旨を語らせ、イスラエルの人々とその指導者たちに、彼らの社会の中の忘れ去られた人たちに対する神から与えられた責任を気づかせることでした。
ヘブライの預言者たちが書いた物の中に、私たちは、正しく生きよ、社会の中で公正をなせ、という繰り返される呼びかけを目にします。イスラエルとその指導者たちの不誠実に立ち向かう預言者たちは、黙っている人たち、とりわけイスラエルが神の御心に従わないことによって傷ついた人たちのための定期的かつ執拗な声でした。
このような預言者たちは、神の心に対する洞察を私たちに与えてくれます。彼らが神に代わって語るとき、私たちは、涙にあふれた神の目を通してこの世界の不公正や苦しみを見ることができるのです。しかし、この情熱はまた、私たちの周りにいる人たちの抑圧や悲しみを和らげ、改善するために神とともに働くようにという、行動への呼びかけでもあるのです。
火曜日:しかし、神は御自分の民に見切りをつけてはおられませんでした。預言者たちの耳障りな声や厳しいメッセージでさえ、御自分の民に対する神の絶えざる関心を伝えていました。神が彼らに警告をお与えになったのは、彼らに対する愛と配慮のゆえでした。神は、彼らを赦し、回復したいと願っておられました。神はいつまでも怒りを保たれることはありません(ミカ7:18~20参照)。
よく知られている「決まり文句」―正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって歩め―の背景は、そのようなものです。簡単そうに聞こえるかもしれませんが、実際にそのような信仰を生きることは、とりわけそうすることが周囲の社会と調和していないように見えるときには、はるかに難しいことです。ほかの人たちが不正行為によって利益を得、慈しみをあざ笑い、誇らしげにからかうときに、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって歩むには、勇気と忍耐が必要とされます。しかし、私たちは独りだけでそうするのではありません。私たちがこのように行動するとき、私たちは神とともに歩んでいるのです。
木曜日:イザヤ書の冒頭の説教(最初の5章)には、神の民が築いてきたような社会に対する痛烈な非難、神を拒絶し、悪行を続けることへの差し迫った裁きの警告、そして、もし民が神に立ち帰り、生活と社会を改革する場合の希望の提供などが混在しています。しかし、イザヤの言葉を通して伝わる最も強い感情は、たぶん悲しみでしょう。この預言者は、神がどのようなお方であるのか、神が御自分の民に何を望んでおられるのかということに対する自分の理解に基づいて、これまでに失われてしまったもの、傷つけられている無数の忘れ去られた人たち、そしてこの国に下されようとしている裁きを嘆いています。
イザヤ書全体を通じて、この預言者の注意のかなりの部分は、メシア到来の宣言に向けられています。メシアとは、地上における神の統治を究極的に再構築し、正義、憐れみ、いやし、回復をもたらしてくださるお方です。
今週は旧約聖書の預言者の言葉から学びます。彼らが神さまから預かった言葉の多くは、背教した民へ、神さまのもとに戻るようにというメッセージが中心と考えていました。けれども今週の学びにあるように、弱い立場の人々のことへ向けてのメッセージも多くあるのですね。神さまを愛する人は、神さまの命令に従います。それは自らの救いについて考えるのではなく、まわりの人たちの幸せのために働くように勧められています。神さまを捨てて、偶像礼拝をしている民に向けて、神さまに戻るようにという勧めの具体的な教えとして、弱い立場の人たちのために働くようと預言者は語っています。
数日前のラジオ放送で、駅などのエスカレーターの片側を開けて歩くことについて討論がなされていました。賛否両論が番組に寄せられていました。そのまとめで語られた識者は「片側を開けることによって、急ぐ人がスムーズに動ける、効率が良くなるなどの考えは、強者の理論なんです。これからは弱者の立場に立って物事を考えねばなりません」と論争を締めくくりました。今から40年くらいまでに、ある障害者団体の責任者から聞いた話しですが、ヨーロッパへ行ったら車椅子でどこへ行っても困らないと話していました。それはバリアフリーが進んでいるのではなく、声をかけたら誰でもがすぐに手を貸してくれるからです。弱い人、困っている人のために誰かが少し手を貸すだけで、彼らが幸せになれるのならば積極的に手を貸すという弱い立場の人に立った社会、このような想いに日本もなって行きたいものです。
聖書の教えは、弱いたちがの人に立った教えですね。そこにも神さまがわたしたちを愛してくださっている姿が現れています。