安息日学校部

20190304安河内アキラ解説

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

PDFダウンロード

第4課 詩編と箴言における慈しみと裁き 7月27日

暗唱聖句

「弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。

弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ」   詩編82:3,4

                                           

今週の聖句   詩編9:8~10、14~21(口語訳9:7~9、13~20)、詩編82編、

詩編101編、詩編146編、箴言10:4、箴言13:23、25、30:7~9

                                           

今週の研究

私たちは、この主題に関して詩編と箴言が述べていることに軽く触れることしかできませんが、もしかするとこの研究によって、(私たちの周りに存在し、私たちが助ける義務のある)貧しい人、虐げられた人、忘れ去られている人たちの必要に応えることにもっと積極的になるよう、あなたは刺激を受けるかもしれせん。

                                           

日曜日:『詩編を考える』の中でC・S・ルイスは、詩編の中で繰り返し表現されている神の裁きに対する興奮と切望に、自分が当初驚いたことを記しています。今日、聖書を読む多くの人が裁きを恐ろしいものと考えていることに気づいた彼は、ユダヤ人のもともとの観点から考えて、次のように書きます。「正しいにもかかわらず、所有物を奪われた多くの人々の訴えが、遂に審理されるのである。当然ながら、彼らは裁きを恐れない。彼らは、自分たちの訴訟が争う余地のないものであることを知っている―ただそれが審理されさえすればよいのだ。神が裁くためにおいでになるとき、遂にそうなるのである」(『詩編を考える』11ページ、英文)。
私たちは詩編の中に、虐げられた人たちにとっての希望を見るのです。現世においても、また彼らの目下の苦しみと失望のさなかにあっても……。

                                           

水曜日: 私たちは時折、貧しい人たちの世話を義務と考えます。神がそうしなさいとおっしゃったからです。しかし詩編146編は、それは神がすでになさっていることであり、私たちは神と協力するように招かれているのだ、と述べています。私たちが貧困、抑圧、病気などに立ち向かうとき、本当に私たちは神とともに、神の目的に従って働いているのです。詩編146編のようなやりがいのあることを成し遂げるために神と組むこと以上にすばらしい特権があるでしょうか。
しかし、私たちにとっても恩恵があります。クリスチャンはしばしば、神を探し求めることや、神と親密な関係を持ちたいという願いについて語ります。しかし詩編146:7~9や、聖書の多くの聖句は、神を見いだす方法の一つが神のなさることに参加することだ、と示唆しています。ですから、詩編146編が述べているように、もし神が貧しい人、病人、虐げられた人たちを引き上げようと働いておられるのなら、私たちも神と一緒に働くべきです。

                                           

木曜日:箴言は、知恵を選び、神に従うことを通してより良い人生を提供しますが、富は、必ずしも神の祝福の結果ではありません。神に忠実であることは、物質的利益よりも重要であり、究極的にもっと価値があるとみなされています―「稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅わずかなもので恵みの業をする方が幸い」(箴16:8)。

箴言におけるもう一つの関心事は、商売、政治、裁判における誠実さと公正な扱いです(箴14:5、25、16:11~13、17:15、20:23、21:28、28:14~16参照)。箴言は、個人の人生に関心を寄せるだけでなく、社会全体がすべての人の利益のために、とりわけ保護を必要とする人たちのためにどう機能すべきかということに関する洞察も提供しています。治める人や指導する人たちは、神の助けを得てそうすること(同8:15、16 参照)、彼らは、困窮している人たちに対する神の恵みと同情の使者として行動すべきであることを、私たちは改めて思い出させられます。

                                           

今週は詩編と箴言から、小さき者への神さまの愛について学びます。日曜日の引用文にもありますが、詩編はなぜこのような苦しみにあわねばならないのかという叫びから始まる詩編が多くあります。これは神さまを信じる者の、各時代の共通の叫びではないでしょうか。神さまを信じることによって苦しみは無くなりません。また罪の世を見たら、矛盾だらけです。わたしたちは苦しみについては仕方がないが、それを合理的に納得できる状況にしてほしいと願うこともあるのではないでしょうか。今しか見ることができないわたしたちの想いではなく、神さまの時を静かに待つこと、そして必ず神さまを讃美する時がやってくるのです。

詩編記者は、苦しみの中から正しいさばきを神さまに求めています。この想いもわかりますね。しかしそのように神さまに求めることができるのは、木曜日の引用文にありますが、自らが忠実な歩みをすることが前提となります。まわりがどのようであっても、わたしたちは正しい道を選んで行くことは大切なのではないでしょうか。

そして水曜日の学びの中で、詩編146:8「主は正しいものを愛される」(口語訳)とあります。新共同訳では「「従う人を愛し」とあります。神さまに従って「正しく歩もうとしている人は、神さまは愛してくださる」。この約束を覚えて、誘惑に負けそうになったり、心が暗くなってしまっている時にも、神さまを信じて前進をしたいものです。