第13課 終わりの時に心を元に返す 6月29日
暗唱聖句
「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように」 マラキ3:23、24、新共同訳
今週の聖句 マラキ3:23、24(口語訳4:5、6)、マタイ11:14、15、17:10、
列王記上16:29~17:24、18:20~45、マタイ3:2
今週の研究
今期最後の週である今週、私たちはさまざまな状況における聖書の物語、約束、体験について考えます。その過程において、私たちの状況がどうであれ、現在の私たち自身のために教訓を引き出すでしょう。なぜなら、十中八九、あなたがだれであろうと、どこにいようと、人生のどの段階であろうと、あなたには苦しみ、恐れ、不安があるからです。幸いなことに、私たちが礼拝する神は、私たちが何に直面しているかを知っておられるだけでなく、それらよりも、間違いなく、まさっておられるお方なのです。
月曜日:この母親の返事は、エリヤのメッセージの影響を示しています。神の力によって命が回復され、家族が再会するとき、神と御言葉に対する信仰が心に湧き上がるのです。今日、教理が説かれるとき、多くの人が同意するかもしれませんが、彼らは霊的経験においてなまぬるい状態にあります。しかし、神の言葉の真理を個人的に経験し、家庭の人間関係にリバイバルと回復が生じるとき、これまでよりずっと強く、確信が心に与えられるのです。
火曜日:エリヤがヤハウェの祭壇を重視したことは、現代において、イエスとその救いの恵みが家庭の中で高く掲げられることに相当します。家庭礼拝は、祈りによって神に語りかけ、家族が神について互いに語り、神の救いの賜物を改めて受け取り、神の教えについてじっくり考えるために心を向け、時間を割く機会です。
エリヤが求めた応答は、神が彼らを御自分のもとに取り戻されたことを示す合図でした。列王記上18:37には、「この民は、……彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」と記されています。私たちは自分の心を神に向けることができません。私たちにできるのは、神の恵みに応じることだけであり、そのうえで神が惜しみなく与えてくださるのです。
すべてを焼き尽くす火は、罰すべき者たちの上にではなく、献げ物の上に降りましたが、それは未来のイエスを指し示していました。彼は、「私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリ5:21、新改訳)。罪の告白と賛美の声が人々の唇からあふれ出ました。偽預言者たちは神の呼びかけに応じなかったので、処刑されました。やがて、さわやかな雨が大地への呪いを終わらせました。
木曜日:この世は、無私無欲な思いやり、持続的な誓い、神への揺るぎない献身の実践を切実に必要としています。神の恵みによって、クリスチャン家庭はそのような実践をすることができます。しかし、私たちがこの世のために持っているメッセージは、私たち自身のものであることも忘れてはなりません。福音、一致、愛、自己犠牲などの原則が私たちの間に、とりわけ私たちの家族の間にあらわれるまで、このメッセージをほかの人に伝える力は私たちにないでしょう。あらゆる雄弁な説教も、あらゆる論理も、聖書の説明も、十分ではありません。この世は、私たちの生活の中に、とりわけ私たちの家庭の中に、私たちが宣べ伝えている悔い改め、変えられた心、愛、誓いがあらわれているのを見る必要があります。バプテスマのヨハネに、人生を変え、彼の説教を効果的なものとする力があったように、私たちは神の恵みによって同じことができますが、それは私たちが進んで協力する度合いに応じてです。
今期の学びは、家族についてでした。家族の事情はそれぞれ異なります。その中で、みことばの教えを日々の暮らしの中で、適用させて行かねばなりません。それには変革が必要なことがあるでしょう。そして変革には、実行する勇気と場合によっては痛みが伴うかもしれません。
今週の学びは、エリヤとバプテスマのヨハネから学びます。どちらも悔い改めのメッセージを語りました。けれどもそのメッセージを受けて、悔い改めるかはあなたにかかっています。そして従わなかった結果は、自らに返ってくるからです。
今期の学びは、一人ひとりに自らの生き方を問われたのではないでしょうか。目を背けたくなることも多々あったと思います。何もしないで神さまが自分を変えてくださると思ってはいけません。自ら正しい道を選び、そちらへ向かって進んで行かねば道は開かれません。それが神さまの声に従って歩むことなのです。