第9課 喪失の時 6月1日
暗唱聖句
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得(るためです)」 フィリピ3:8
今週の聖句 マルコ5:22~24、35~43、Ⅰペトロ5:6、7、創世記37:17~28、
ルカ16:13、ローマ6:16、Ⅰコリント15:26
今週の研究
確かに、私たちはみな、喪失の現実とその痛みを知っていますし、ほとんどの人は、喪失が自分の家族を襲うときに最も強くそれを感じます。それもそのはずで、私たちは家族の中に最も親密な絆を持っているからです。従って、家庭における喪失は、さまざまな形において私たちに最も強い衝撃を与えます。
私たちは今週、さまざまな喪失の時との関連で家庭生活について考え続けます。
日曜日:疑いもなく、私たちは、人間が苦しむのは堕落した世界に生きているからだと認めています。罪がこの世に侵入したとき、死だけでなく、慢性的な苦しみ、病気、疾患なども一緒に侵入しました。慢性的、または末期の病に直面したとき、私たちは衝撃、怒り、絶望を味わい、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(詩編22:2〔口語訳22:1〕)と叫びたくなるかもしれません。ダビデがそうしたように、私たちも疑問、怒り、痛みを神にぶつければよいのです。
いろいろな意味で、病気や苦しみは、イエスの再臨の際に死が最終的に敗北するまで謎のままです。一方で、私たちは神の言葉の中から重要な真理を集めることができます。ヨブは言いあらわしようのない苦痛に耐えながらも、神との親密さを深める体験をしました。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42:5)と、説明しています。パウロは何らかの慢性疾患を持っていましたが、その病に対する対処の仕方は、(もし私たちが苦しみによって打ち負かされなければ、)苦しみによって私たちが他者を慰められるようになること、苦しんでいる者への思いやりを私たちが持てるようになること、私たちが一層効果的に仕えることができるようになることを教えています(Ⅱコリ1:3 ~5)。
水曜日:罪と依存症は、必ずしも同じものではありません。人は、依存症に陥っていない罪を犯す可能性がありますが、しばしばそれは依存症になります。神の力によって、依存症になる前にその罪を止めることは、なんと良いことでしょう。言うまでもなく、罪や依存症に対する唯一の解決法は、新しい心を受けることです。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(ガラ5:24)。パウロはまた、キリストのために生きることができるように、罪深く、依存症的な性質に死ぬとはどういうことかをローマの信徒に説明したうえで(ロマ6:8~13)、「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ロマ13:14)と付け加えています。
木曜日:愛するだれかを失った人で、敵である死がいかに手ごわいかを自ら感じない人がいるでしょうか。その一方で、死者は「安らかに」過ごしています。もし彼らが主にあって目を閉じたのであれば、ほんの一瞬と思える間に、彼らは不死の体へと復活させられるからです。「信じる者には、死は小事にすぎない。……クリスチャンにとって死は眠り、一瞬の沈黙と暗黒にすぎない。生命はキリストと共に神のうちにかくされ、『キリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう』」(『希望への光』1092ページ、『各時代の希望』下巻318ページ)。
金曜日:依存症の結果として、多くの人が苦しんできました。彼らは欲望の奴隷となり、お金、仕事、健康、そして自由を失いました。しかしイエスは、罪やあらゆる依存症からの自由を私たちに与えるために来てくださったのです。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハ8:36)。イエスはまた、私たちといつも共にいると、約束してくださいました(マタ28:20、イザ43:2)。それゆえ、私たちがこの戦いを独りで行う必要はありません。それどころか、この戦いは主の戦いであり(サム上17:47)、主が勝利を約束しておられることを(Ⅰペト1:3~9)、私たちは覚えていなければならないのです。あなたはきょう、どんな依存症にも勝利する道を歩み始め、あなたが切望する自由や、神があなたのために望んでおられるものを受け取ることができます。これは、あなたがもがき苦しまないとか、たまにしか失敗しないとかいう意味ではありません。しかしありがたいことに、あなたが主に見切りをつけない限り、主もあなたに見切りをつけたりなさいません。そして確かに、専門的な助けを求めることも間違っていません。主は、健康の問題に関してあなたを助けるために医療の専門家を用いられるように、依存症を助けるために専門のカウンセラーを用いることもおできになります。
今週の表題を見て、家族との死別について学ぶのではと思っていましたが、家庭崩壊や依存症などについて多く語られています。これも喪失になりますね。
死は、人間だれでも必ず訪れます。特に、子どもが先に眠りにつくこと、これは残された家族にとって大きな悲しみです。けれども木曜日の引用文にありますが、亡くなった方は、今はすべてから解放されて安らかな眠りについており、次に目を覚ます時は再臨の時なのです。これはわたしたちにとって希望ではないでしょうか。
依存症について、水曜日の引用文と今週の暗唱聖句が、「新しい心を受けることです」と教えています。心を変えなければ、そしてそれまで依存したものが不要にならないと、依存症から離れることはできません。あるドラマで、主人公がSNSで異性との会話に熱中していましたが、ふとした出会いですてきな恋人ができました。その時に彼は空想の世界を捨てて現実の愛を選んだ場面を思い出しました。
もっとすばらしいものに価値を認める時に、新しい世界へ進むことができるのではないでしょうか。もちろん依存症かたの脱却が簡単にできることではなく、神さまを信じたら、依存症から脱却できると簡単には言うことはできません。わたしたちも何に価値を置いておくのか、そこを自らに問いたいですね。