第3課 七つの教会へのイエスのメッセージ 1月19日
暗唱聖句
「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」 黙示録3:21
今週の聖句 黙示録2:8~11、黙示録2:12~17、黙示録2:18~29、黙示録3:1~6、黙示録3:7~13、黙示録3:14~22
今週の研究
西暦1世紀のエフェソの教会へのメッセージを分析した先週の研究で見たように、また今週の、残りの六つのメッセージの研究で見るように、イエスが希望を与え、それぞれの状況の中にある各教会の必要に応えてくださるのを目にするでしょう。それゆえイエスは、今日の私たちの必要にも応えることがおできになるのです。
火曜日:イエスは、サルディスの少数のクリスチャンが忠実であることを認めておられますが、ほとんどは霊的に死んでいました。この教会は、(ペルガモンやティアティラのクリスチャンのように)明らかな罪や背教を告発されているのではなく、霊的無気力を告発されています。
この手紙はまた、あらゆる世代のクリスチャンに当てはまります。かつてキリストに忠実であったことを、いつも誇らしげに話すクリスチャンがいます。残念ながら、その同じ人は、キリストとの現在の体験については分かち合うものをあまり持っていません。彼らの宗教は名ばかりであって、真の心の宗教も、福音に対する純粋な献身も欠いています。
木曜日:黙示録3:14~17とホセア12:9(口語12:8)を読んでください。イエスはラオディキアのクリスチャンを、深刻な罪や異端や背信のゆえに非難していません。問題は、霊的無気力をもたらす自己満足でした。町に届く温泉のように、冷たくもなければ熱くもなく、生ぬるかったのです。自分たちが金持ちで、満ち足りていると主張しましたが、実は貧しく、裸で、自分たちの霊的状態に対して盲目でした。
イエスはラオディキアに、その激しい戦いに先立って今(永遠に手遅れになる前に)、備えることを思い出させたいと願っておられるからです。それゆえ、黙示録16:15 はラオディキアの人たちに、イエスの勧告に耳を傾けず、裸のままでいるなら(黙3:17、18)、彼が来られるときに恥をかき、失われてしまうだろうと(Ⅰヨハ2:28 ~ 3:3 参照)、警告しているのです。
イエスはラオディキアの人たちに、彼らを愛していることを保証し、「悔い改めよ」(黙3:19)と訴えておられます。イエスは御自分の訴えを、雅歌5:2~6の恋人に自身をたとえることによって結んでおられます。その恋人は、戸口に立って戸をたたき、中に入れてくれるよう嘆願しているのです(黙3:20)。扉を開いて彼を中へ入れる者はだれでも、イエスとの親しい食事と、最終的には、玉座で彼とともに統治することが約束されています(同20:4 参照)。
金曜日:それぞれのメッセージを終える際に、イエスは彼の勧告を受け入れる人たちに約束をしておられます。しかし、教会における霊的衰退が明らかになるにつれて、与えられる約束は比例的に増えていることが見て取れます。イエスが最初にメッセージをお与えになったエフェソは、一つの約束しか与えられていません。各教会が霊的下降傾向をたどるにつれ、与えられる約束の数は、前の教会より増えていくのです。最後に、ラオディキアにある教会は、一つの約束しか与えられませんが、最大の約束が与えられます。それは、イエスの玉座にともに座らせよう、というものでした(黙3:21)。
今週は、七つの教会へのメッセージを学びます。それぞれの教会へのメッセージや、歴史的にいつの時代への預言かについては、ガイドの本文にわかりやすく書かれていますので、そちらで学んでください。
七つの教会へのメッセージ全般を通して学ぶことは、まず、どの時代も苦しみがあったということです。それは迫害などの外からやってくる苦しみもありますが、無気力などの内部からのやってくる苦しみもあります。わたしたちの信仰生活も同じではないでしょうか。
二番目には、どの時代にも救われるためになすべきことが書かれています。そしてどの時代の最後にも聖霊の声に聴き従うことが救いへの道であると勧められています。聖霊は、今もあなたに語りかけてくださっています。人生には苦しみが必ずあります。けれどもそのわたしたちに聖霊の導きが与えられます。その声に従って生きる時に、神さまは勝利へと導いてくださるのです。それは天地創造から一貫して聖書が教えていることでもあるのです。