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第9課 教会と教育 柳 鍾鉉
1.安息日午後
今週の暗唱聖句はテサロニケの信徒への手紙一2:6〜8です。
教会は心からの対話がなされる場を提供し、それぞれの人が恵みによって成長し、神と神のご計画に対して理解を深められる安全な環境でなければならない。
2.日曜日:真のキリスト教教育
イエスは譬え話を通して人々に分かりやすく真理の言葉を話された。その良い例の一つがルカ10:30からの「良きサマリア人」の話である。イエスは律法学者の質問「私の隣人は誰のことですか」に対して、「良きサマリア人」の話をされた。真のキリスト教教育はキリストのように人間的な偏見や先入観、民族、身分、社会的な地位を乗り越えて人々に愛を持って接することである。そして一人一人の価値と重要性を理解して、彼らに真に値するような扱いをするように教えることである。
3.月曜日:光として生きるように召されて
「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)とイエスは弟子たちに話された。このイエスの言葉の意味を注意深く理解する必要がある。イエスは「世の光になるように務めなさい」とは決して話されなかった。イエスはすでに「あなたがたは世の光である」と宣言されたのである。問題は自分が主の弟子として世の光であることを忘れ、光として生きることをしないことである。
4.火曜日:弟子として生きる
イエスは私たちを弟子として招いてくださった。それはただ1日だけの弟子ではなく生涯に亘る弟子なのである。弟子は自分を招いてくれたイエスの下で学び、その教えに従い、生きる者である。全ての主の弟子にはイエスが生きられたように生きることが求められている。イエスは困っている人を助け、福音の良い知らせをつたえ、ご自分の命を捨てて多くの人々を救いに導いた。イエスはナザレの会堂で安息日にイザヤ書61章を朗読することによって、ご自分の使命を告げ知らせ確かなものにされた。
5.水曜日:真理を探究する
聖書は私たちが抱えている難しい人生の問題に対して答えを持っている。例えば、私たちは何者なのか。なぜここにいるのか。どのように生きるべきなのか。死んだらどうなるのか。なぜ悪や苦しみが存在するのか。もし、私たちが神の言葉からこれらの問いに対する答えを見つけようと熱心に探究するのであれば、その答えは必ず見出されるであろう。ここにキリスト教教育の真の意味がある。
6.木曜日:ともに生きる
主の弟子として召された私たちは、自分だけが救われるために生きる者ではない。ともに生きるために召されたのだ。テサロニケの信徒への手紙一2:8で、パウロはテサロニケ人たちに次のような驚く言葉を残している。「自分の命さえ喜んで与えたいと願っている」。それを可能にしてくださるのは、愛である。イエスがご自分の命を喜んで捨ててくれたように、私たちもともに生きるために兄弟姉妹のために命を捨てるのである。私たちは教会で聖書を通してともに生きることを学ぶのである。