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第9課 賢く生きる 平本 光
1.安息日午後:今週のテーマ
カットグラスの水差しの話が出てきます。私は見てきれいだと思っても価値はわかりません。その価値を知っている人でなければ、本当の値段や素晴らしさを伝えられないものです。私が20代のときにアルバイトをしていて、どら焼きを差し入れされました。渡されるときに、このどら焼きが有名でおいしい店のどら焼きであると聞いていました。一緒に働いていた人がそれを知らないで、「食べない」と私に渡してきたので、「これは有名でなかなか食べられないどら焼きなのによいのですか?」と確認した途端に、私の手から奪って食べておられました。価値を知ってそれを手放すことはなかなか難しいのが人間です。パウロは、キリストの素晴らしさと言う価値を理解しているつもりでしたが、エペソの人たちはキリストの素晴らしさよりも、今までの生活の中にあったみだらな集まり、飲酒する生活に価値があると考え、誘惑に負けていた人たちもいたようです。第2課の学びにありましたが、キリストの霊を常に心に迎え入れている限り、私たちは天の御国を相続することができるのです。キリストの価値を見失うことなく、キリストから離れないで賢く生きていくことについて考えていく学びです。
2.日曜日:「それよりも、感謝を表しなさい」
パウロは、エフェソの手紙5章を通して、愛によって歩むように勧めています。自分自身がキリストによってどれほど愛されているかということを知って、その愛を他の方々にも伝えていくため、キリストの愛に習った生き方をするように勧めています。その確証として
1.父なる神とキリストご自身の愛によって動機づけられている。
2.キリストは私たちの身代わりとなって死んでくださった代理人である。
3.旧約聖書の時代の聖所での奉仕に象徴されるように、キリストの姿は、神に捧げられた犠牲である。
4.この犠牲を通して神はささげられたものを「香りのよい供え物」として受け入れる。
ということです。今も昔も、キリストを知ることで、間違っていたことや、神に従う上で正しくない生き方から離れ、用心深くキリストが喜ばれる生き方を選び、他の人たちとの間でも良い評判を得ることができるように正しく歩んでいくように教えています。
3.月曜日:光の子として歩む
パウロは、エフェソの人々に、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――」(エペソ5:8―9口語訳)と、主に喜ばれることが何であるかを見極め、正しい振る舞い、神様の喜ばれる生き方を選ぶように教えています。神は悪に対して神の怒りを用いられますが、それは気まぐれに気分次第で怒る人間の怒りではなく、徹底的な神様から反した生き方を取り除く怒りなのです。
4.火曜日:「眠りについているものよ、起きよ」
パウロは、神様への賛美と感謝の言葉を語ることを勧めています
この励ましは、終わりの時の死者の復活(エフェソの2章1、5節参照)に関連する表現を用いて、霊的な眠りから覚め、キリストに似た姿へ変えられる経験をするように明確に呼びかけています。
そのために
1. 光の子として神に栄光を帰す生き方をすること
2. みだらな会話やみだらな行いをしない。
という2つを通して神から離れることのない生き方が大切です。パウロは、エフェソの人々や現代の私たちのことを責めるためではなく、神の恵みによってすべての人が正しい生き方をすることができるように、キリストを受け入れた人々は、キリストを証する者として、光に照らされた品性の改革をキリストから与えられ、キリストの価値を見失うことなく、キリストから離れないで賢く生きていけると教えています。
5.水曜日:掘り出し物を手に入れる
ガイドの中にある「エクサゴラゾー」というギリシャ語が、「掘り出し物を手に入れる」という意味があります。パウロは、この言葉を用いて、キリストの再臨を待ち望む、私たちが、その機会を最大限に活用することを促しています。
「クリスチャンの希望は、希望的観測※ではない、クリスチャンの希望は、熱心に待ち望んで、前進していくことである。われわれは、行動するのである。われわれは行動して、生きるのである」。(副読本68頁)とあるようにキリストを信じる、人生を選んでいながら、他のものに左右されて正しく歩むことができないなどとならないように、いつもキリストにあって与えられる永遠の命や天の国に必ず行けるというキリストと歩むことによって各省のある希望を胸に歩んでいくことが大切です。
※希望的観測:そうなってほしいという希望であって、確証のないこと
6.木曜日:霊に満たされた礼拝
はじめに理性を麻痺させる飲酒について注意がされています。飲酒には正しい判断ができなくなり乱暴なことや、あとから取り返しがつかない行為や品性が乱れてしまうことが必ずあることだとパウロは教えています。ある人は聖書を独自の解釈で、飲酒は良いけど、酔ってはいけないと考えています。飲酒して酔うか酔わないかにかかわらず、飲酒する場所に参加して、危険に会うことや正しい判断ができない人に巻き込まれてしまうことがないように、常にクリスチャンとして正しい判断ができるようにお酒を避けて目覚めた状態を維持していくことが大切です。また、キリストを信じる人々の礼拝は魅力的で興味をそそるものであるとパウロが教えています。人の心の最も奥深くにある切望にかない、現代の習慣や魅力に対して戦い抜く可能性を秘めているものが礼拝です。私たちは、霊に満たされた礼拝が必要です。副読本の中で礼拝について書かれています。
1.礼拝は観戦する(見ているだけ)ものではなく参加する(協力して関わっていく)ものです。パウロは「御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうた」(エペソ5:19口語訳)う信徒の姿を描いています。
2.礼拝は、神を中心とした様々な種類の心のこもった音楽が奏でられるものであるべきです。
3.礼拝は教会とそのプログラムを宣伝するイベントではなく、神を礼拝することにのみ焦点を当てるように教えています。安息日を通して私たちは福音を分かち合い喜ぶことが大切です。
4.礼拝は、クリスチャンの仲間意識と共同体をはぐくみ、現実化します。
7.金曜日さらなる研究
このエフェソ5:1―20を振り返るときに、クリスチャンの生き方についての大切なことはなんでしょうか。ガイドの中では飲酒に関しての説明が何度もありました。飲酒は私たちをキリストから離れさせる力があるものです。飲酒によって言葉や行いもキリストから離れたものになるからです。私たちは神にならうものキリストにならうものであり、愛の神と自己犠牲的なキリストにならうべきです。エフェソ5:1―2に「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」とあるように、再臨が間近に迫っている時代に、酔ったりみだらなことでキリストから離れることのないように、意識をはっきりさせて礼拝をおこない、キリストの救いを喜んで、キリストに喜ばれる生き方を続けましょう。
振り返りの質問
1.自分のクリスチャンとしての歩みの中で反省する点があるでしょうか。
2.私たちが喜んで生きることができるように、キリストを賛美して礼拝するには、
日々どのように歩むべきでしょうか。