第9課 エルサレム論争 吉村 忍
1.安息日午後
【暗唱聖句】
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。(マルコ11:25、新共同訳)
★今週は、エルサレムでのイエス・キリストと宗教指導者達との論争の内容から学んでまいりたいと思います。
2.日曜日:凱旋入場
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9)
★預言者ゼカリヤは、イエスがお生まれになる500年前に上記の預言をしました。
「イエスは堕落した世に対するご自分の使命の最後の仕上げとなる犠牲に、人々の注意を引こうと望まれた。」(『希望への光』970ページ、『各時代の希望』第63章)
イエスの凱旋(サタンとの戦いに勝ってエルサレムに帰ってくること)は、世の有名な征服者(将軍)達がしたようなものとは違っていました。イエス・キリストが十字架につけられたのは、エルサレム入場の5日後でした。
3.月曜日:呪われた木と清められた神殿
イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。(マルコ11:14)
そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:17)
★葉が茂っていて実のならないいちじくの木は、ユダヤ国民をあらわしていました。彼らは、自分達は他の国民とは違うことを誇りとしていましたが、神様の教えに忠実ではなく、偽善的な行為を繰り返し、謙遜な姿からはほど遠く、愛やあわれみに欠けていました。
彼らの姿は、外見だけは立派に見えるいちじくの木のようでした。祭司と役人達は、神殿を商売の場所としていました。彼らの心は、※1利己心と※2貪欲心で汚れていました。鋭い眼で汚された神殿をご覧になったイエスは、権威をもって祭司達と役人達を神殿から追い出し、神殿を清められました。私たちの心の神殿を今、どのような状態になっていのか確認したいと思います。
イエスは、私たちが自らの罪を認めて悔い改めることを願っておられます。
※1 利己心:自分が1番と思っていること
※2 貪欲心:欲張りな心(あれもこれも自分の物にしたいという思い)
4.火曜日:何の権威で行動したのか
そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」マルコ11:33
★宗教指導者達は、イエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(マルコ11:28)と質問しました。宗教指導者達は真理を求めていたのではなく、イエスを※3罠にはめようとしていたのです。宗教指導者達は、イエスが自分の権威は神から授けられたと主張するものと期待していました。そして、そのような主張をしたら、宗教指導者達はそれを※4否定するつもりでした。
イエスは宗教指導者達の質問に対して、彼らの※3罠を見抜いて、こうおっしゃいました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう」(マルコ11:29)。イエスの質問に対して、宗教指導者達は答えることができず、「分かりません」と答えました。
イエスは、決して宗教指導者達に※5恥をかかせようとなさったのではありません。むしろ、彼らに警告を与えて、罪の悔い改めをさせたかったのです。
※3 罠:だまして困って苦しい立場に追いやる
※4 否定する:間違いだと言うこと
※5 恥をかかせる:人の前で恥ずかしい思いをさせること
5.水曜日:地上の義務と天上の結果
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ12:17)
★イエスを※3罠にかけようとした宗教指導者達に対して、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」とおっしゃいました。「イエスは、彼らがローマの権力下に生活しているのだから、神に対する義務と矛盾しない限り(両立する時だけ)、ローマの求める支持を与えるべきであると宣言された。しかし、その国の律法に従順に従う一方で、いつでも神への忠誠を第一としなければならなかった」(『希望への光』987ページ、『各時代の希望』第66巻)
6.木曜日:最も重要な掟
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29〜31)
★十戒の
第1条から第4条は、『心をつくして主なるあなたの神を愛せよ』という意味です。
第5条から第10条は、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』という意味です。
この2つの戒めは両方とも、愛を表しています。
神を1番に愛する同時に、隣人もみんな同じように愛することができるのである。
(『希望への光』990ページ、『各時代の希望』第66章参照)
神様が私たちを様々な出来事や場面において、「神を愛し、隣人を愛する」ことの意味や喜び、祝福について学ばせてくださり、霊的成長を与えてくださることを感謝いたします。
7.金曜日:さらなる研究
ホワイト夫人の文章を、わかりやすく書き直します。祈りのうちに心に留めたいと思います。
「人に奉仕しないクリスチャンは神の律法を守っていない。他の人を見ようとせずに自分のためだけに生きる者は、全てが見せかけだけで実のならないいちじくの木と同じである。彼らは礼拝を守っているが、悔い改めもしなければ、信仰もない。口では神の律法を大切にしているが、神さまのみ心に従わない。実のならないいちじくの木を憎むことの意味を教えている。」(『希望への光』977ページ、『各時代の希望』第64章参照)。