第8課 弟子たちを教える(その2) 関谷修一
1.安息日午後
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:45、口語訳)
イエスさまは十字架に架かられる前に、イエスさまに仕えるとはどういうことかを弟子たちに教えられました。今週はマルコ10章から、結婚、子ども、富との関わり方、イエスさまに従うことの祝福と失ってしまうもの、最後は二人の盲人のいやしのお話です。イエスさまが弟子たちに教えられたように、今度は、私たちがイエスさまに仕えるとはどういうことかについて学びます。たとえどんな試練が待ち受けていようとも、イエスさまは、ご自分に従う者たちを試練に備えさせてくださいます。
2.日曜日:結婚に対する神の計画
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。・・・従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」マルコ10:6-9
イエスさまの時代には、女性は大切にされていませんでした。男性は、気に食わないことがあると簡単に女性と離婚をして、家から追い出しました。
しかし、イエスさまは、創世記1章と2章の御言葉を用いて、結婚についての意味をあらためて教えられました。神さまは初めに人間を男と女という別々の大切な人として造られ、二人は父母を離れて一体となると言われました。イエスさまは、結婚という結びつきをとても大切にされています。結婚生活は、うまくいくことばかりではありません。結婚が教える大切なこと - イエスさまにお仕えするように互いに仕え、赦し、愛を育み、成長する結婚生活 - を御言葉から学びましょう。
3.月曜日:イエスと子どもたち
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14、15)
子どもたちはイエスさまが大好きですし、イエスさまは子どもたちを愛しておられます。福音書の中には、イエスさまが子どもたちと過ごされたたくさんの例が書かれています。でも、何かの理由で、弟子たちは、子どもたちがイエスさまの時間を奪うことはよくないと考えて、子どもたちを連れてきた人々を叱りつけました。イエスさまは、このこと(子どもたちを連れてきた人々を叱りつけたこと)にとても怒られて、子どもたちをご自分のもとに来させるようにと言われました。なぜなら、神の国は子どもたちのものだからです。
神さまの国は、子どものような態度や心で受け入れるところです。どんな人であっても、イエスさまに近づき、信じて救われることができます。私たちもイエスさまに子どものように素直で、心からの信頼を持ってお仕えし、隣人に仕えていきましょう。
4.火曜日:最高の投資
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ10:17)
お金持ちの男が、「永遠の命」を求めてイエスさまのもとへ来ました。しかし、たくさんの財産を持っていたために、男は悲しみながら立ち去ってしまいました。
イエスさまは言われました、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)と。
男は、財産を捨ててイエスさまに従うことが出来ませんでした。しかし、イエスさまを信じて従うとき、私たちは迫害も受けますが、財産を捨てても神の恵をいただき永遠の命も頂けるとイエスさまは言われました。私たちを愛してくださるイエスさまを、信じて救われているという恵みが、イエスさまにお従いする力を私たちに与えてくれます。私たちは自分の力で天国へ行くことはできません。イエスさまに救われた恵みを子どものように信じて、イエスさまにお仕えしましょう。
5.水曜日:私が飲む杯を飲むことができるか
旅の途中、ヤコブとヨハネは、イエスさまに栄誉(偉くなるための力)を求めました。その時にイエスさまは、ご自分が飲まれる杯を飲み、ご自分がお受けになるバプテスマを受けることができるかと、逆に二人にお尋ねになりました。杯とは、ゲッセマネと十字架での苦しみのことです(マコ14:36と比較)。バプテスマとは、イエスさまの死と埋葬のことです(同15:33~47)。イエスさまは、二人の弟子もこの杯とバプテスマを受けることになると言われ、そのとおりになりました。
神の国では、栄誉(偉くなるための力)は、自分を喜ばせるためではなく、いつも他の人を喜ばせ、祝福するために用いられます。イエスさまは神の国の王さまとして、栄誉(偉くなるための力)を先頭に立って使われます。それは「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるため」(マルコ10:45)でした。この方が私たちのために十字架に架かられた救い主です。謙遜に、イエス様にお仕えしていきましょう。
6.木曜日:「何をしてほしいのか」
イエスさまがエリコを出ようとされとき、道端で物乞いをしていた盲人が、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マコ10:47)と叫び始めました。「ダビデの子」という呼び方には、「この人こそが癒し主であり、悪霊を追い払う者である」-という意味もあります。
とても酷い生活の中で、自分で生きるギリギリの状態にあった盲人には、イエスさまこそが彼を癒してくださる「ダビデの子」だという強い信仰があったのです。だから盲人は、自分の身を包む大切な上着を脱ぎ捨ててイエスさまに近づいていきました。
イエスさまから、「何をしてほしいのか」(マルコ10:51)と聞かれたとき、盲人はためらうことなく、「目が見えるようになりたいのです」といいました。イエスさまはすぐに叶えてくださり、盲人は目が開かれて、道を進まれるイエスさまに従って行きました。イエスさまは「ダビデの子」ですから、私たちに心と体の癒やしを与え、救われた生活へと招いて下さいます。この方に、私たちも何もかも捨ててしまう気持ちでお仕えしていきましょう。
★イエスさまにお従いする力は、どうしたら得ることができますか。
★あなたはイエスさまから、「何をして欲しいのか」と問われたなら、何と答えますか。