第6課 イエスについてのさらなる証し 鈴木 優人
[暗唱聖句]
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。(ヨハネ12:32、新共同訳)
1.安息日午後
「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」(ヨハネ7:31)
先週までに、イエスは自分が旧約聖書に約束されたメシア(救い主)であるということを一部の人たちに語られたことを学びましたが、イエスは語るだけではなく、奇跡やしるしを実際に行うことによって自分がメシアであることを示しました。しかし、そんなイエスの行動を見て、イエスを信じた人たちもいれば、イエスを憎んで殺したいと思うようになる人たちもいたのです。今週の学びは、イエスのしたことを見た人たちがどのように証言したのかについて学びます。
2.日曜日:魂の謙虚さー再び証しするバプテスマのヨハネ
ヨハネ3:22〜36を読みましょう。
バプテスマのヨハネの弟子たちは、多くの人がヨハネのところではなく、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたイエスのところにいってバプテスマを受けていることに嫉妬していました。しかし、バプテスマのヨハネ自身はイエスに嫉妬することはありませんでした。なぜなら、バプテスマのヨハネは自分の役割が、人々の目をメシア(キリスト)であるイエスに向けさせることであるとわかっていたからです。バプテスマのヨハネはイエスこそがキリストであると示し、イエスのために道を備え、イエスについて証しをするためにやってきた人でした。このメッセージに従う人は、イエスによって永遠の命を得ます。これに従わない人は、永遠の死が待ち受けています。
3.月曜日:メシアについての新たな理解
「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」(ヨハネ3:32)
ユダヤ人たちは旧約聖書で預言されているメシア(救い主)が現れることをずっと待っていました。当時のほとんどのユダヤ人の考えでは、「メシア(救い主)」とは、ローマを倒し、ユダヤの王国を武力と政治力によって強い国にしてくれる存在として期待されていました。バプテスマのヨハネはイエスを「神の小羊」と呼びましたが、これはメシアが武力によって国を指導するリーダーを指すのではなく、イエスが十字架で犠牲になることを示していました。ところが、ほとんどのユダヤ人たちはその言葉の意味を理解していませんでした。イエスのメシアとしての本当の目的は、自分が罪のいけにえになることで、本当の神の国をもたらすことにあったのです。それは、聖霊が教えてくれることによって理解できるようになることです。
4.火曜日: 需要と拒絶
2課でとりあげた、マルコによる福音書6章の5000人の給食の出来事の続きを学びます。
イエスの奇跡によって食事を食べることができた人たちは、イエスを王にして、ローマを倒してもらおうと考えました。ところが、イエスがこの奇跡の霊的な意味を説明すると、人々はイエスが地上の王にはならないとわかり、多くの人がイエスから離れました。しかし、イエスのいちばん近くにいた十二弟子たちは、これまでイエスが語ったことや行った奇跡を見た経験から、イエスに従い続けることを選びました。弟子たちはまだイエスの目的をきちんと理解はしていませんでしたが、イエスこそメシア(救い主)であると信じたのです。弟子たちはイエスが十字架で死に、復活したあとにやっとイエスの目的を理解できるようになりました。
5.水曜日:父なる神の証し
「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:32)
聖霊が教えてくれたように、父なる神もイエスについて証しをしています。
イエスがバプテスマを受けたとき、聖霊がイエスの上にとどまりましたが、そのときに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)という父なる神の声が聞こえました。それだけでなく、ヨハネ12:28では「父よ、御名の栄光を現してください。」とイエスが言うと、それに応えるように「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を表そう」と父なる神の声が聞こえたのです。3課で学んだように、イエスの栄光の時というのは、十字架の場面です。ですから、父なる神によるイエスの証しは、罪のために犠牲となることがイエスの働きの頂点であることを示します。
6.木曜日:群衆の証し
「下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた」(ヨハネ7:46)
イエスはご自分が何者で、何をするために来たのかを大胆に(堂々と)語ったことをヨハネは何度も記録しています。イエスの語るメッセージにはとても力がありました。
群衆は旧約聖書の預言を見て、イエスが何者なのかをあれこれと議論しましたが、実はみんなが予想していたものはすべてイエスに当てはまっていました。
イエスと敵対していたファリサイ派の人たちは「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男(イエス)を信じたものがいるだろうか」(ヨハネ7:48)と質問します。このあと、聖書を読みつづけていくと、議員でファリサイ派であったニコデモがイエスを信じるようになったことの証拠が書かれています。
7.金曜日:さらなる研究
「弟子たちは、キリストを受け入れてから、以前のどんな生活よりも平和と喜びを感じていた。…彼らは長い間メシヤを待望してきた。そのメシヤが今おいでになったのである。」(『各時代の希望』第41章)
話し合いのための質問
・イエスが救い主だという証拠をあたえられたときに、喜んでイエスを受け入れる人と、拒否する人がいるのはなぜでしょう。