安息日学校部

第6課 聴覚しょうがい者用 第6課 下村 和美

2025年第2期「聖書の預言の学び方
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第6課  犠牲を理解する(5月10日)下村 和美

1.安息日午後
新約聖書のバプテスマのヨハネが語った言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)の「神の小羊」は、旧約聖書に書かれている聖所の祭壇に捧げられた犠牲の小羊のことであり、全人類の身代わりとなって十字架の死を遂げられたキリストを示しています。

「わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、※1ほふられたとみえる子羊が立っているのを見た。」(黙示録5:6、口語訳)は、イエスがほふられた小羊のような姿で現れたということを通して、イエスは十字架に自分の命を捧げた深い愛の神であることをハッキリと知らされます。
※1ほふられた:体を切り裂かれた

2.日曜日:無益な犠牲なのか
神にささげた犠牲を拒否されることは悲劇です。創世記で、アベルの犠牲は神に受け入れられ、カインの犠牲は受け入れられませんでした。
神に受け入れられなかったカインの犠牲は、この世の王国を動かしている自己満足と同じ精神であり、カインは自分の好きなように生き、自分のやり方で形だけの儀式でした。
しかし、神に受け入れられたアベルの犠牲は、これから来られる救い主キリストが、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださることを信じ、キリストの犠牲の象徴として捧げた小羊なので、神に義と認められ、犠牲の供え物が神に受け入れられたのでした。

3.月曜日:雄牛と山羊の血
動物の犠牲制度を、「残酷、過酷、不当」と批判する人がいますが、キリストの死は※2残酷で過酷で不当なことでした。罪なきイエスが罪ある者のために死んだのは、罪の問題を解決するために必要だったのです。
犠牲を、十字架上のイエスの死の「小さな預言」と表現する人もいます。犠牲の儀式の小羊や動物は、神の小羊キリストが私たちを救うために身代わりとなって死なれた贖いの犠牲を象徴し、将来、イエスの十字架の死と復活が起こることを当時の人々に伝えました。
イエスが十字架にかかり復活した今は、イエスの十字架と復活をこれから起こることとして知らせる必要はもうなくなったので、象徴としての犠牲の儀式の目的は達成され、役割は終わりました。
※2残酷で過酷で不当なこと:相手を苦しめることを平気でやること

4.火曜日:過越の小羊
黙示録ではイエスのことを「小羊」と30回近く呼んでいます。救済計画のはじめの頃から、神の民は来るべきメシアの象徴として「小羊」という言葉を用いていました。
イエスだけが神の聖さを満足させる唯一の人間としての人生を送られました。イエスは「最後のアダム」と呼ばれ、私たち人間が失敗し、罪を犯した場所で、完璧に生きられました。イエスは人間性において、人類があるべき姿そのものでした。イエスは神の栄光を完全に反映して生きた方として示されています。「わたしを見たものは、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)
神は過越祭の時に、傷も汚れもない小羊を選び、「取り分けて」おくように命じられました。つまり、傷も汚れのない小羊としてイエスは、十字架に架かる前に神殿で公然とご自分の生涯、御業、教えの全てを人々に伝えました。十字架の死まで、真にイエスが傷のない犠牲の小羊、神の義と栄光の最も力強いあらわれであることを示しました。

5.水曜日:神殿のイエス
救済物語の全体を通して、神は、人間と神との交わりを回復し、私たち人間に近づくことを心から望んでいます。
しかし罪人が神の前に出れば滅びてしまうために、罪を犯した人間と神が会うことができないことを、神はどうすればよいか悩まれました。
最初の神殿はソロモンが建て、神のご臨在が神殿に満ちていましたが、第二神殿が建てられた時には、神の玉座を表す契約の箱は行方不明となっていたので、神のご臨在が神殿を満たすことはありませんでした。
しかし、第二神殿には、宇宙を創造された神であられるイエスが人間の姿となって垂れ幕の後ろから出て来て、神の顔を私たちに示し、神の声を語られました。御自分から人間の所まで降りて来てくださり、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださいました。イエスを信じる人間を、神は罪を犯さなかったイエスと同じように見てくださり、罪を赦し、神が心から望んでいた人間と神との交わりを回復されました。

6.木曜日:あなたは万物を造られたからです
預言者や弟子のヨハネは幻の中で天の国を見せられました。
旧約聖書の聖所の奉仕は、人類が神の御前に行くことができる唯一の道は「キリストの血」だけであることを示しています。
イザヤもヨハネも、神がおられる玉座のある部屋の幻の中で、はじめに天の御使いが神の聖さを明らかにし、天の神の栄光の光景を見せています。その天の光景を見せられた人間は、自分は価値のない無力な者であることを理解し、自分の身代わりとなって死んでくださったキリストの必要を求めます。
サタンは、「神は独断的で、利己的で、厳しい方だ」と非難します。父なる神がどんな方であるかは、私たちのために人となり十字架で死なれた神イエスを見ることで、父なる神の真の姿を見ることができ、サタンの神に対する非難が嘘であることが示されました。イエスの十字架による犠牲の行為によって、神がご自分を身代わりの犠牲にするほど私たちを愛しておられることと、私たちが罪深く堕落していて、十字架によるしか救いの道はないということを知ることができるのです。

7.金曜日:さらなる研究
聖書は、キリストが唯一の救いの保証であり、罪のない唯一の人生を送り、父なる神の栄光を完全に満足させる汚れのない神の小羊、永遠の保証として人類の先頭に立っておられる方であると示し、神であるイエスの死によって罪の問題を解決しました。
人類が堕落し、その堕落した人間によって破られた神の律法は、罪人の生命を要求しました。
神の愛は、生命を要求された人間の身代わりにイエスを死にわたし、救い出す贖いの計画を立てました。人間の身代わりに死の要求に応じられるのは、神と同じイエスだけであり、イエスは神と同じ身分でありながら私たちを救うために悲劇のどん底に降りて来てくださいました。イエス・キリストは人間となられた唯一の神、神の小羊です。