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第6課 人の本性から出てくるもの 明智信作
1.安息日午後
今週のテーマは「人の本性から出てくるもの」です。それが、人をけがすのであって、外から人の体にはいるものではない、ということを学びます。暗唱聖句は、ずばり、このことを明確に教えてくれています。
2.日曜日:人間の言い伝えと神の命令
イエスの時代には、神の命令よりも、人間の言い伝えの方を大切にしていました。その結果、弟子たちが洗わない手でパンを食べているのを見て、ファリサイ人や律法学者たちが、弟子たちのしたことをイエスに尋ねたとき、イエスは「『この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」(イザヤ29:13)と、神の命令の代わりに人間の言い伝えを大事にする事をまちがいだと言って、弟子たちを守りました。
さらに、イエスは「父と母を敬え」という神の命令をとりあげ、「『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」(マルコ7:11〜13)と、人間の言い伝えが間違っていることを示し、人間の言い伝えよりも律法の戒めを守るようハッキリと言っておられます。
3.月曜日:きれいな手か、きれいない心か
イエスは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:15)と群衆にお語りになりました。
この言葉は、レビ記11章の、清い食べ物と汚れた食べ物に関する教えを廃止しようとしておられるのではなく、ファリサイ派の人々が作った接触の汚れの言い伝えが無効であるということです。例えば、「異邦人と一緒にいることで汚れるのであれば、異邦人が触れた食べ物に触れることでも汚れる」というような考えはまちがっている、ということです。
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20-23)
この聖句で、イエスが言われた「人を汚す」ものとは、「人から出て来るもの」、つまり、人間の「悪い思い」から出てくるものであると教え、具体的に「淫らな行い、盗み・・・無分別など」を示しておられます。さらに、イエスは、十戒の第5条の「父と母を敬え」(マルコ7:10)の戒めを無視した「何でもコルバンで父または母に対して何もしないで済む」という言い伝え(マルコ7:11〜13)や、口先だけの礼拝は、十戒の第1条から第4条を破る事になるのだと教え、神の律法を正しいと言っておられます。
4.火曜日:犬のためのパン屑
イエスがツロの地方に行かれた時、「だれにも知られないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった」(マルコ7:24、口語訳)とあります。
このみ言葉が示しているように、当時、イエスは、どこに行かれても人々の関心を集めていたこと、そして、人々は、居場所を聞きつけると、すぐにイエスのもとにやってきていたことがわかります。
マルコ7:24-30に出てくる、ギリシャ人女性もその一人でした、ギリシャ人女性は、自分の娘がけがれた霊につかれている、という大きな重荷をかかえていた女性でした。娘もどんなにか苦しい思いをしていたに違いありません。ギリシャ人女性は、「イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」(マルコ7:25、口語訳)、「娘から悪霊を追い出してください」(26節)とお願いしました(新改訳では「願い続けた」)。
ところがイエスは、「まず子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(マルコ7:27)とお答えになります。一見、断っているかのような印象を受けますが、そうではありませんでした。イエスは、「まず」と述べて「次」があることを感じさせ、さらにギリシャ人女性が食卓の下の犬であることを気づかせました。
イエスの「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言うお答えに対して、ギリシャ人女性は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供たちのパン屑は、いただきます」(マルコ7:28)とこたえました。これは犬が家の食卓の下にいてパン屑をいただくように、ギリシャ人女性もイエスの足もとで娘のために一生懸命にお願いして、イエスの娘をいやすという力強い奇跡を「パン屑」として信仰を表しています。
イエスは、切実な気持ちで、しかも、ご自分を信じて身元に来る者を、決してがっかりした気持ちで帰すようなことはなさらない、憐れみ深いお方だと、あらためて感じさせる場面です。と同時に、この母親の信仰と娘を思うひたむきな愛にも心を打たれます。
5.水曜日:回らない舌
耳が聞こえず、話すことも困難な男が連れて来られました。耳が聞こえず話すこともできないと周りの人とコミュニケーションが取れなくて孤独になり苦しむことを、イエスは理解して、ひそかに男を連れ出され、男の両耳に指を差し入れ、唾をその舌に触れ、深くため息をつかれました。ため息をつかれたのは、「真理に向かって開こうとしない耳と、あがない主を告白しようとしない舌とを思って」(『希望への光』881ページ、『各時代の希望』第44章)でした。
イエスは人間の自由意志を尊重するので、人間の意志を無視してまで、みわざを行う事はしません。イエスは耳の聞こえない人の耳を開くことはできても、不信仰の人の心にご自分がメシアであると認めさせることはできません。
しかし、ここに出てくる男のいやしは、喜んで神に立ち帰る人に神が何をおできになるかを示しています。読者の皆さんの中には、聴覚に障害がある人もおられますが、主のお招きとお導きにご自分から応答(応えて)して、キリストをご自分の救い主と信じる信仰を神からいただいた方々です。聴覚に障害がある方々は、神の御声を聴く事ができるようにならせていただいたことを神に感謝し、御名をほめたたえましょう。生きた証しになります。
6.木曜日:悪いパンに注意しなさい
マルコ8:11には、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。このみ言葉によれば、ファリサイ派の人々は、イエスを試し、天からのしるしを求め、議論をすることだけに関心があって、はじめから、求道心などなく、イエスを信じる心など持っていない事がわかります。ガイドが指摘しているように、「たとえそれが天からのしるしであっても、彼らを納得させることはできないでしょう。それは、これまでのすべてのことと同様、はねつけられるだけです。どんな奇跡も、信じまいと心に決めている人を納得させることはできないのです。」(ガイドp44)
イエスは、彼らの中に神を求める心がなかったので、深く失望されました。
弟子たちはパンを持ってくるのを忘れていました。
イエスはこの機会を用いて、ファリサイ派とヘロデの「パン種」(マルコ8:15)、つまりファリサイ派と※ヘロデ派の教えに気をつけなさいと、弟子たちに警告されました。
しかし、弟子たちは、自分達が忘れて来たパンのことと思い、イエスの話そうとしておられることを理解できませんでした。イエスは、弟子たちがご自分の話を理解していないことに失望しながらも、弟子たちを霊的に目覚めさせるために、話を続けられました。
「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。・・・まだ悟らないのか」(マルコ8:17、18、21)
イエスは、マルコ8:19、20で、5000人(マルコ6:30-44)と4000人(マルコ8:1-10)の/人々を養われたあと、パンくずの入った籠がいくつあったかと、質問することで、弟子たちに少ないパン屑を増やせたことを思い出させようとしました。
ファリサイ派の人々やヘロデ派は、信じまいと心に決めているので、神なるイエスでも、ファリサイ派の人々やヘロデ派を納得させる事はできません。しかしイエスに信じてついて来る弟子たちがなかなか理解できない姿を見る時、イエスさまがどれほど忍耐して待っていてくださるか、とあらためて気づかされます。
※ヘロデ派:宗教的なグループではなく、ヘロデをはじめとする政治的な一派です。ローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちです。本来、ファリサイ派とヘロデ派は仲良くありませんでしたが、イエス様を陥れようとする時には手を組みました。
7.金曜日 さらなる研究
参考資料として紹介されている『各時代の希望』第42章「言い伝え」、第43章「打破された壁」、第44章「真のしるし」を読みましょう。証の書は、この教会に与えられているすばらしい光です。