PDFダウンロードルビ付きの原稿はPDFからご覧ください
第5課 聖書のみ ―「ソーラ・スクリプトゥーラ」 柴田 寛
1.安息日午後
今週のタイトルには長い横文字がついていますが、これはラテン語で「聖書のみ」という意味です。なぜラテン語なの?と思われた方もいらっしゃると思いますが、これは1517年にドイツで宗教改革をおこしたルターが、カトリック教会からプロテスタントへと分離する際、プロテスタント信仰の三大原理(聖書のみ・信仰のみ・万人祭司)を言い表すために用いた言葉だからです。つまり、当時のキリスト教世界の公用語は、古典的で専門的で難しいラテン語であり、当然、聖書もラテン語でした。これは一般民衆には手の届かない世界であり、聖書の教えを自分の目で確かめることを阻止していました。そんな時代が1000年以上もあったのですから驚きです。その間に、教会の中には、聖書の教えから外れたさまざまな「言い伝え」ができていき、それらがまるで聖書の教えであるかのように、まことしやかに語られたのです。民衆はそれを鵜呑みにするしかなく、長い間「聖書のみ」という大切な原則がないがしろにされてきました。宗教改革者ルターは、キリスト教の教えの唯一の情報源は「聖書のみ」でなければならないと強く訴え、プロテスタントが誕生したのです。聖書を自由に手にすることのできる今、私たちはこの目でしっかりと聖書を読み、確認しなければなりません。
2.日曜日:支配的基準としての聖書
もしあなたが、聖書が神の言葉であると本気で信じるなら、聖書の言葉に権威があることを認めるでしょう。つまり、聖書の言葉がすべてに優先するのです。パウロは第一コリント4:6で、「書かれているもの以上に出(る)」べきではないと言いました。聖書の語っていること以上に語り、また聖書が語っていること以上のことを受け入れるなら、聖書の権威を認めていないどころか、聖書の著者である神を畏れていないことになるからです。教会の中で、聖書の見解が食い違い、対立する時、私たちは自分の意見を通そうとするのではなく、沈黙すべきです。そして初代教会の人たちのように、神の前にひざまずき、謙遜に、理解を与えてくださいと祈りながら、聖書を開き、調べましょう。神様は、神を畏れ、御言葉の権威を認める者を祝福してくださいます。
3.月曜日:聖書の一貫性
聖書の究極の著者は神です。だから40人以上の著者が1600年間もの長い時間をかけて書いたにも関わらず、驚くべき一貫性を持っているのです。この一貫性は神の霊の働きによるものです。聖霊が40人以上の著者の心に働きかけ、書かせたからです。聖書が、聖なる書と呼ばれる理由がここにあります。イエス様もパウロも、旧約聖書のいたるところから引用していますが、これは聖書が一貫していることを知っており、聖書全体が一つの大きな物語、神様からのメッセージであることを知っているからです。ですから、私たちは聖書全体を研究しなければなりません。聖書全体を通して神が何を語りかけ、教えようとされているかに心の耳を傾けてみましょう。もしそうするなら、私たちは不健全な教えに流されたりすることから守られるでしょう。
4.火曜日:聖書の明瞭さ
聖書の教えはとても明瞭で、基本的なことは子供でも理解することができます。もちろん、難解で理解不能なところもあります。しかしそれは、必要な時がくるまで伏せられているのだと思いましょう。それらを無理にこじつけて解明しようとするのではなく、神が明瞭に明かしてくださっている部分に心をとめましょう。神様は愛の方です。いたずらに難解にして、私たちを悩ませ、落ち込ませるようなことはなさいません。私たちが知っておくべきことはすでに明らかにされています。それは、私たちの救いに関することです。そのことに感謝し、賛美をおささげしましょう。
5.水曜日:聖書で聖書を解釈する
聖書はパズルのように組み合わさっています。一貫性とは、大きくて素敵な一枚の絵に例えられるでしょう。パズルの各ピースは、どこかとつながっています。そのつながりを探す・・・これが聖書研究です。ですから、聖書を理解し一枚の絵にするために、聖書の他の箇所を丹念に調べる必要があるのです。復活のイエス様は、十字架の意味がわからず混乱している弟子たちの心を鎮め、元気づけるために、エマオという村へ向かう弟子たちのそばにあらわれ、道を一緒に進まれました。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカ24:27)のです。これは、パズルのピースをひとつひとつ、つなぎ合わせる作業でした。道々、復活のイエス様のお話を聞いているうちに、弟子たちのモヤモヤした心はスッキリと晴れ、十字架の意味がはっきりと分かり、私たちの救いのために、キリストが十字架にかかられる必要があったことを理解したのです。その時、弟子たちの心は熱く燃え、生き返ったのです。私たちも聖書を丹念に研究するなら、同じ体験をすることができるのです。
6.木曜日:「ソーラ・スクリプトゥーラ」とエレン・G・ホワイト
エレン・ホワイトの書物の存在は、「聖書のみ」というプロテスタント教会の基準に反するのでしょうか? それはエレン・ホワイトの書物をあつかう私たちの態度にかかっています。私たちが、エレン・ホワイトの書物を、聖書に追加し、聖書と同じ権威を持たせようとするなら、それは間違いを犯すことになります。しかし、聖典の一部にはならなかった預言者たちの「証しの書」(イザヤ8:20)が、「夜明け」(同・口語訳)をもたらすような重要な働きをするのも事実です。パウロが霊的賜物の中に「預言する力」(第一コリント12:10、28)を挙げているように、神は、必要な時に必要な預言者をお送りくださり、必要な「教えと証しの書」(イザヤ8:20)をお与えくださるのです。エレン・ホワイトは、「もし、あなたがたが・・・神の言葉を研究していたなら、証の書を必要としなかっただろう」と言いました。つまり、エレン・ホワイトの書物は、私たちが「大きな光」である聖書を深く研究するために、神がこの時代にお与えくださった「小さな光」なのです。私たちがそのことをしっかりと理解し、聖書を唯一の基準として高く掲げるなら、道を踏み外すどころか、素晴らしい祝福に与るのです。
7.金曜日:さらなる研究
今週最後の勧告は、私たちがいつも健全な信仰を保つために、とても大切なポイントです。私たちは、自分の意見を裏づけるために、聖書を開いていませんでしたか? また、「ホワイト夫人がこういった、ああ言った」とばかり言ってこなかったでしょうか? これからは、「主はこう言われている!」と言えるようになりたいですね。そのために、日々聖書を探求いたしましょう!