安息日学校部

第4課 聴覚しょうがい者用:関谷修一

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第4課  私たちの忠実な兄弟イエス  関谷修一

 

1.安息日午後

ヘブライ人への手紙は、永遠の創造主であられる神の御子イエス・キリストの本当の姿を教えてくれると共に、私たちを深く愛し、まごころをつくして人類の兄弟となられたイエスの姿をも描いています(ヘブ1:1~4)。今週はヘブライ人への手紙2章から、罪人に近づいて来られて人となり、私たちのことを「兄弟」と呼ばれ、その中でも年長の兄弟として私たちのために責任を持ち、愛のまなざしで見つめ続け、助け、守る者となられたイエス・キリストについて学びます。

 

2.日曜日:贖い主なる兄弟

モーセの律法には、貧しい人や困っている人を助けるために50年ごとのヨベルの年というものがありました。どんなに借金があっても、また奴隷となっている人でも、その年が来ると自由になれたのです。でも、50年も待つことは大変なことです。そこで、貧しい人や困っている人がいたならば、最も近い親戚の人(例えば兄弟など)がその人のために助けてあげる決まりがありました。

ヘブライ2:15(聖書協会共同訳)には、「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした」と書かれています。アダムが罪を犯し、サタンの奴隷となっている私たちは、自分の力で罪に打ち勝つことができません(ロマ7:14~24)。そして、罪のために死ぬことが私たちの運命となりました(ロマ6:23)。

そんな私たちのためにイエスは、(聖なる神であるにもかかわらず、罪人である)私たちの「兄弟」と呼ばれることを恥とはなされず、人となられ、私たちの最も近い親戚になって下さいました。イエスは兄弟として、十字架によって私たちを買い戻してくださったのです(ヘブ2:11)。

 

3.月曜日:彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせず

ヘブライ人への手紙を読むと、迫害にあった時に、その苦しさから多くの人たちがイエスを「侮辱する者」(ヘブ6:6)となっていたことがわかります。しかし、神であるイエスは、私たちの救いのために兄弟と呼ばれることについて「恥とされ」ませんでした(ヘブ2:11 口語訳)。このことがどれほどのことなのか、瞑想してみましょう。

出エジプトのリーダー:モーセも、「ファラオの王女の子」として将来を約束されていました。しかし、奴隷状態にある仲間たちの救いを考えた時に、彼はこれらすべての特権や栄誉を捨てて、教育も権力もない奴隷の民、イスラエル人のひとり(「兄弟」「親戚」)となることを選びました。

貧しさや試練によって、私たちの信仰は足下から揺さぶられることがあります。ですからパウロは、私たちが絶えず「公に言い表している」信仰を「しっかり保」つように勧めています(同4:14、10:23)。

 

4.火曜日:私たちのように血と肉を備えられ

聖書は、イエスが私たちと同じ肉体をとり、人となられたので、私たちの親戚、兄弟であり、その長子(代表)となって、私たちの身代わりとして死ぬことができたのだと述べています(ヘブ2:9、14~16、10:5~10、ローマ8:29)。これが私たちに教えられた神の救いの計画の土台です。そして、ここに永遠の命への希望があります。

イエスは私たちのために、真の人間となって下さいました(ヘブ2:17)。けれども、イエスはどんな罪も犯されませんでした(ヘブ4:15)。もしイエスが私たち罪人のようであったなら、彼にも救い主が必要だったのです。しかし、イエスは真の救い主であり、私たちのために「聖であり、罪なく、汚れ」のない犠牲として御自身を献げられたのです(ヘブ7:26~28、9:14)。

この課では大祭司としてのイエスについて特に触れていませんが、私たちの兄弟:長子としてのイエスは、ご自分の犠牲を大祭司として献げて下さり、悪の力を滅ぼし、私たちへの赦しと、神との和解を与えて下さいました(ヘブ2:14~17)。そしてサタンを撃ち破り、人々を自由にして下さったので、私たちは「生ける神を礼拝する」(ヘブ9:14)ことができるのです。

 

5.水曜日:苦しみを通して完全な者とされる

「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブ1:3)であるイエスが、同時に「苦しみを通して完全な者とされた」(ヘブ5:8)とも書かれています。神であるイエスが「完全な者とされた」とは不思議な言葉です。どういうことでしょうか。

① 人となられ、罪の傷のない完全な犠牲としてのイエスだけが、十字架という贖いの死に臨むことができました。イエスは神として私たちを裁くことができると同時に、人となり、完全な犠牲となられたので、私たちを救うことができました。

② イエスは神として、すべてを従わせる立場の方でした。しかし、人となられたことで、「従う」ということをも学ばれ、私たちの模範となって下さいました(ヘブ5:8、9)。イエスは罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において従順に、わたしたちと同様に試練に遭われたので、私たちの弱さに完全に同情することができるのです(ヘブ4:15)。

② 十字架の苦しみを通してイエスの兄弟愛の真実が、完全に明らかにされました。十字架は全宇宙に対して、イエスが忠実な大祭司、愛であることを明らかにしたのです(ヘブ2:17、18)。

 

6.木曜日:型としての兄弟

イエスが人となられ、肉体のある人間のところへ来られたもう一つの理由は、私たちが神の前に正しい生き方をするための唯一の模範となるためでした。特にヘブライ12:1~4でパウロは、イエスのことを「信仰の創始者また完成者」と呼んでいます。イエスは、人生という競走を立派に走り抜けた最初のランナーであり、信仰によって生きることをやり遂げた方でした。イエスは、常に神を信頼し、神の約束を信じて歩まれたのです(ヘブ1:13、10:12、13)。同じ約束が私たちにも与えられています(ロマ16:20)。どんな時にもイエスと同じように、神を信じて歩んでいきましょう。

 

7.金曜日:さらなる研究

ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます』(ヘブ2:13)というイエスの言葉は、・・・パトリック・グレイは、兄弟たちの保護者としてのイエスが描かれていると言います。当時、ローマには父親が死んだ場合、『トゥテラ・インプベルム』と呼ばれる制度がありました。『しばしば年長の兄弟である後見人は、幼い子どもたちが成年に達するまで、彼らの養育と遺産管理の責任を負った。こうして、年長の兄弟には、年少の兄弟姉妹に対する肉親としての養育義務が発生するのである』(『神への畏敬─ヘブライ人への手紙と古代ギリシア・ローマの迷信批評』126ページ、英文)。この文章は、ヘブライ人への手紙が、なぜ私たちの身分に関して、イエスが兄弟であると同時に神の子どもであることに言及しているのかを説明しています。イエスは、私たちの年長の兄弟として私たちの後見人、保証人、そして保護者となられたのです。」

「その生活と教訓を通して、キリストは、神にみなもとがある無我の奉仕について完全な実例をお与えになった。・・・この奉仕の理想を、神はみ子に託されたのである。イエスが人類のかしらに立つために与えられたのは、奉仕することがどういうことであるかをご自分の模範によって教えるためであった」(『希望への光』1016ページ、『各時代の希望』下巻125、126ページ)。

 

■ 話し合いのための質問

ヘブライ人への手紙は、イエスが私たちを救うために「私たちの兄弟になられた」と言います。イエスが「あなたの兄弟である」ことは、あなたにとってどんな意味がありますか。キリストの兄弟であることが、あなたの人生に何か影響を与えていることがあるならば、語ってみて下さい。