第3課 執筆の背景――序言 下村 和美
1.安息日午後
今週は、ヨハネによる福音書の初めの聖句から、私たち読者を天地創造前のイエス・キリストや宇宙がどのように誕生したかの一部についてを示し、ヨハネの福音書の他の聖句からも同じように示されていることを確認していきます。
このヨハネによる福音書の主題は「イエスがメシアである」ということを聖書の中のイエスの地上生涯から分かるようにしています。
2.日曜日:初めに(神なる言)
ヨハネによる福音書の初めに書かれている「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)の言葉の「初めに」は「言」であるイエスは宇宙の始まる前から存在し、永遠に存在している方であることを断言しています。次に「言は神と共にあった」と記し、ヨハネはヨハネによる福音書の1:18でも同じように「言」(イエス)は「父のふところにいる」と述べて、イエスと父なる神はとても親しい関係であると言っています。またイエスは父なる神と一つの神であり、神と共に存在しなかったものを存在するようにされた創造の神でもあられます。
3.月曜日:言葉は肉となった
ヨハネは「言」(ギリシア語のロゴス)という言葉を用いて、地上に人間として生まれたイエス・キリストを現しました。また、ヨハネはイエス(言/ロゴス)を、私たち人間と個人的レベルで関係を持ってくださる方であり、永遠の神が私たちと同じ一人の人間として、この地上に来て下さった方として紹介しています。
つまりロゴスは人間となられた神であるイエスを示し、人間と接触できるように、神の栄光を覆われた方であることを示しました。
4.火曜日:「言」を聞くか否か
「言(ロゴス)」は、世の人々がどのようにイエスと関わったかということも説明しています。ヨハネによる福音書1:9ではイエスを「まことの光」と呼び、このイエスの放つ光は、この世に生まれる全ての人を照らし、全世界を照らす光として理解できます。しかし、ヨハネによる福音書の主要な主題は、人々が「言(ロゴス)」また「まことの光」であるイエスを受け入れるか、受け入れないかをも示しています。
ローマの信徒への手紙で、多くのユダヤ人がイエスを受け入れないことが書いてありますが、パウロは異邦人と共に多くのユダヤ人がイエスをメシア(救い主)として受け入れるとも言って希望を与えています。つまり人はイエス・キリストを自分の救い主(メシア)として信じることによって救われるということを示しています。
5.水曜日:繰り返し登場する主題(信仰/不信仰)
人類は2つのグループに分かれます。
①一つは、イエスを信じ、救い主として受け入れる人々。
信じたグループには11弟子、ニコデモ、ヤコブの井戸の女性、生まれつき盲人であった男性などがいます。
②もう一つは、信じる機会があるのに信じないことを選ぶ人々です。
信じなかったグループには、イエスの弟子の一人であったイスカリオテのユダ、ファリサイ派の人々、大祭司、5000人の給食という奇跡の現場にいたけれど信じなかった人々などがいます。
イエスを信じることは私たちが頭で信じるだけでなく、信じたことを行い、生き方に現わすことが求められます。
このイエスを信じる人々と信じなかった人々の違いは、日頃のイエスとの関りによります。
①信じた人は、イエスに心を開き、イエスの所に来て逃げません。こうして信仰によって信じることによって、信じた人々は「神の子」となります。
②その人々とは逆に、イエスを信じない人たちは、イエスと闘うためにイエスの下に来ます。また、イエスを裁く側に立っています。
6.木曜日:繰り返し登場する主題(栄光)
昨日の学びの信じるグループと信じないグループの間にあるものとして、イエスは何者であるか、イエスが何をしておられるかが中心になっています。
ヨハネによる福音書の序言は、イエスが何もなかったものが存在するようにした創造者として紹介しています。また、受肉によって人間となられたイエスが、人間に栄光を与えるのは、十字架の死と結びついていると教えています。
人間的に見れば十字架の死は、とても恥ずかしい処刑方法でしたが、神の最大の栄光は、イエスの十字架の死によって神ご自身がこの世の罪を負われるという、恥ずかしいことの中に示しました。
7.金曜日:さらなる研究
神の御子であられるイエスは、永遠の昔から存在し、この世を創造されたイエスが父なる神と共におられました。イエスは世の罪のために十字架で死なれた救い主として、罪人の前に示されました。罪人は私たちに対するイエスの深い愛を知る時に、心は和らげられ、悔い改めようという心に導かれます。
そして、人が正しいことをしたいと望む時、イエスの力(聖霊)がその人に働いて、イエスに引き付けられ、良心が呼び覚まされ、悔い改められます。