安息日学校部

第2課 聴覚しょうがい者用 池増 信男

2024年第4期「ヨハネによる福音書の主題
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第2課  神性のしるし    池増 信男

 

1.安息日午後

[暗唱聖句]

「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。」(ヨハネによる福音書11:25、26口語訳)

 

★イエス様のみ言葉は、人の言葉とは異なり、聞く者の心に迫ってきます。人が簡単に口には出せない言葉であり、特にヨハネによる福音書はイエス様のみ言葉で満ちています。これは何を表しているのでしょうか。ヨハネはイエス様が「人の子」(ヨハネ314であるだけではなく「神と等しい者」(ヨハネ518であることを強く私たち読者に訴えかけているのです。

 

2.日曜日:5000人の給食

「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ64851

 

ヨハネ福音書6章に書かれているお話は、出エジプトにおけるモーセの出来事が元になっています。モーセはシナイ山にて神様から与えられた律法を語り、またマナが天から降ってきたように、イエス様もガリラヤ湖畔の小高い丘でみ言葉を語られましたし、その前には5000人にパンをお与えになられました。しかし、イエス様はモーセが語ることのできない事を語られたのです。マナ(地上の食物)を食べた人は死んでしまったし、死にます。しかし、「命のパン」であるイエス様を信じ、食べる者は永遠の命に預かれるのだと約束されたのです。イエス様は命の源、すなわち神であられます。

 

3.月曜日:「まさにこの人こそ、•••預言者である」

「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネ61415

 

★ユダヤ人はローマ帝国がもたらす苦しみから自分たちを救い出してくれるメシアの出現を待ち望んでいました。そんな状況の中でイエス様が病人をいやされ、死んだ人を生きかえらせ、さらには多くの人々の空腹をわずかな食物で満たされるというしるしを行われたので、この方こそ、自分たちが待ちに待った預言者(メシア)であると確信しました。しかし、イエス様はそのようなお方ではありません。イエス様はご自身のことを、わたしは、「世の光」、「門」、「良い羊飼い」、「よみがえりであり命」、「道であり、真理であり、命あり」、「まことのぶどうの木」であると言われました。ローマ帝国からの苦しみを取り除かれるお方ではなかったのです。私たちはイエス様をどのような「メシア」として信じているでしょうか。

 

4.火曜日:盲人のいやし(その1)

「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:2、3)

 

★病気はその人の犯した罪の結果であるという考えをユダヤ人たちは持っていましたが、今日の私たちもそうではないでしょうか。病気の人は他人から罪人呼ばわりされ、ある者は自分を責め、悔いるのでした。しかし、イエス様は病気の原因に目を向けられるのではなく、「病気であっても神の素晴らしさが証しされる機会になるんだよ。」と言われるのです。なんと素晴らしい見方でしょう。

罪の原因に目を向け過ぎず、この病気を通して神様のどのような素晴らしさが味わえるのだろうかという明るい気持ちを持って、今の現実を受け止めてまいりたいと思います。

 

5.水曜日:盲人のいやし(その2)

「『生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。』彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した。」(ヨハネ93234

 

★イエス様のなされたしるしによって、その場にいた人々は2つに分かれてしまいました。もちろん見えるようになった人は、自分の目を開けてくださった人物を神のもとからこられたお方であると告白します。ところがユダヤ人たちは、しるしをおこなわれたイエス様のことを、「どこから来たのか知らない」と突きはなし信じようとしませんでした。イエス様のすべての言動は、見聞きする者たちを2つに分けるのです。あなたはどちらの側に立ちますか?

 

6.木曜日:ラザロの復活

「イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためでる。さあ、彼のところへ行こう。」(ヨハネ111315

 

★ラザロが死ぬほどの病気であるとの知らせがイエス様のもとに届いたのに、イエス様は3日後にラザロのもとへと足を向けられました。その間に、彼は死んでしまったのです。イエス様はラザロが死ぬことをあえて許されたのでした。イエス様は不思議なことをなさるお方です。人々はラザロが生きている時にイエス様が必要な方法で彼をいやされるだろうと考えたはずです。でもラザロは死に墓に安置されました。イエス様は墓の前にこられ、墓石を脇に転がすように命じられます。そして「ラザロ、出てきなさい。」と命じられたのです。すると包帯が巻かれたままの姿で、ラザロは墓から出てきます。イエス様はラザロを復活されることによって神の栄光を表されました。神のみ力や栄光は私たちが予期もしない場面の中で示されるものなんですね。私たちが信じる神様は実に不思議なことをなさるお方です。

 

7.金曜日:さらなる研究

イエス様は「命のパン」です。その「パン」を食べる者は命に与れます。今私たちはイエス様のお姿を見ることはできませんが、イエス様の声は聞くことができます。日ごとにみ言葉(「命のパン」)を味わい、そこから命に至るパンに与りましょう。