安息日学校部

第13課 聴覚しょうがい者用:藤田 昌孝

2019年第1期「ヨハネの黙示録ーイエス・キリストの働きを知る」

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第13課 「わたしは万物を新しくする」 藤田 昌孝

 

1.安息日午後

エレン・ホワイトは、そのことを次のように表します。

キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。・・・それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。・・・人間の救いのためにキリストが死なれた行為は、人間が天にはいる道を開いたばかりでなく、神とみ子が、サタンの反逆に対して取られた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった」(『人類のあけぼの』上61~62頁)。

 

2.日曜日:小羊の婚宴

「わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである。」黙示録19:7~8

婚礼に着てゆかなければならない衣はキリストの血によって白くされた衣です。その昔、王が婚礼に人を招く時には、招待客それぞれに礼服を提供したそうです。王の執事が招待客の体のサイズを測りに家々を回ったともいわれています。その際してはならないことは、自前の礼服で宴に訪れてはならないということです。

私たちも、イエス様の身代わりの償いによってのみ主の前に立たなければなりません。

「正しい行い」とは何でしょうか。それについては、アドベンチストライフ別冊『黙示録研究』(昭和48)年の言葉が的を射ていると思います。

「聖徒たちは…キリストの義を受け取ることによって『用意をした』のである。この義は天の織物で織られた衣に似ており、人間が作り出したような糸は一本も含んでいない。それは、彼らの側のどんなわざによるのでもなく、キリストによって、求める者たちにはただで『許された』賜物として、もたらされるのである」。

もちろん、キリストの義は私たちを回復へと向かわせます。義とされた者の行いは主にある正しさに向かって回復し続けるのです。

 

3.月曜日:ハルマゲドンの終わり

またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。黙示録19:11

白い馬の騎士は何と呼ばれているでしょうか。「忠実で真実な者」です。真にそのようなお呼びできる方はイエス様だけです。

「その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。」黙示録19:15

彼の口から出る鋭いつるぎとはなんでしょうか。それは「神様の言葉」です。

終わりの時代、神様の言葉が裁きの基準となります。神様の言葉を選ぶのか、それとも人の言葉を選ぶのか、それが人をして裁きの前に立たせるのです。

エジプトを脱出したイスラエルの民がカナンの地に入るまでに何を学ぶ必要があったでしょうか。彼らは荒野の40年で、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」ことを学びます。

私たちも常日頃、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」ことを学んでおかなければなりません。終わりの時代、竜や獣は、不思議や奇跡、権力をもって人々を惑わすからです。私いたちは今のうちから、神様の言葉に選びの基準を置く習慣を身につけておくべきです。

 

4.火曜日:1千年期

「彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。」黙示録20:2~3。

イエス様のご再臨の時には、地上は数々の災害によって荒廃しています。その中にサタンは一人置き去りにされます。

それはちょうど古代ユダヤの「贖罪日」の儀式に似ています。アザゼルの山羊は民の一年の罪を負って、荒野に放たれます。サタンの救われた者たち全ての罪を負って、一人地上に取り残されます。

救われた者たちは空中で主と会い、そのまま天上での千年間を過ごします。彼らはその期間、裁きの座につきます。そして歴史の真相を知るのです。地上にいたときに解明されなかった問に答えを得ます。「何故このようなことが起きたのか」「何故・・・」一つ一つに答えが与えられます。また、「何故私が救われたのか? 何故あの人は天国にいないのか?」神様の裁きの正当性が明らかにされます。

 

5.水曜日 新しい天と新しい地

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」黙示録21:1

「新しい」というギリシャ語は「カイノス」は、時間においての新しさではなく、質における新しさです。それは「天から下って来る」(21:2)もの。神様がくださるものです。人類文明が発展して達成されるようなものではありません。

「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、』」黙示録21:3

神様との完全な交わりが回復します。全人的回復の根本は神様が共におられるということです。神様と人の間に罪がじゃまをしていました。しかしそれが全て消され、神様と人との完全な交わりが回復されます。

 

6.木曜日:新しいエルサレム

「都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。」黙示録21:16

縦・横・高さが同じであるということは最高度の完成を象徴しています。そして立方体は至聖所を連想させます。都そのものが至聖所です。神様と人が共に住む所です。

「旅行く友よ、われわれはまだ地上の活動の影と混乱のさ中にいる。しかし、間もなく救い主は現れて、救いと休息をお与えになるのである。我々は信仰をもって、神のみ手によって描かれた幸福な将来を眺めよう。…やがて戦いは終わり、勝利を収める。やがてわれわれは永遠の生命の希望の中心であられる方にお目にかかる。そして、彼のみ前において、この世の試練と苦難は無に等しく思われる」『国と指導者』下333~334頁