安息日学校部

第12課 聴覚しょうがい者用:森田栄作

2020年第4期「教育」(天国に備える教育) 

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第12課 安息日―神のご品性を体験し、生きる 森田栄作

 

1.安息日午後

ユダヤ教の専門情報「ミルトス」というネットのサイトがありますが、こちらに「安息日」について、このように書かれていました。「安息日がなければユダヤ教も存続せず、ユダヤ人の歴史も消滅していたことでしょう。ユダヤの格言に、『安息日がイスラエルを守った』とあります。」

また、安息日は私たちをキリストのように生きるために教育し成長させてもらえる日でもあります。

 

2.日曜日:驚くための時

創世記1章と2章は似たようなことが書かれていますが、その違いとして、2章は、最初の人間アダムが創造されたことが詳しく書かれており、人間との深い絆で結ばれ、神様ご自身が人と交わることを強く望んでおられたことがわかるのではないでしょうか。そして、アダムとエバが創造された次の日は、素晴らしい安息日でした。一日中神様と交わることから人生がスタートされたのです。神様が造られた美しい自然を初めて見る経験は大変驚くことばかりだったと思います。そして、多くのことを神様から教えてもらい、また学ぶことが多くあったと思います。ですから安息日は教育の日でもありました。

 

3.月曜日:再発見のための時

モーセの時代、イスラエル人はエジプトの地で長い間、奴隷の生活をしていました。安息日を守ることや本当の礼拝のあり方をほとんど忘れていたようです。神様はイスラエル人を奇跡的な方法で奴隷から解放し、荒野へ旅をさせ、安息日を覚えること、正しい礼拝の方法を再発見させたのです。荒野では毎朝、天から降ってきた食べ物マナを集めていましたが、安息日は全く降ってきませんでした。それは安息日には仕事をしないように前日の金曜日には2倍のマナを集め、仕事を休んで神様とだけ交わるように指示されました。私たち日本人の感覚では毎週ちょっとしたお正月が来るというようなわくわくした感覚でしょうか。

 

 

4.火曜日:優先順位を学ぶための時

安息日が「喜びの日」「尊ぶべき日」となっているでしょうか? もし安息日の礼拝が形式化し、神様の愛に感動し、献身の思いを堅くしていかなければ、安息日の礼拝の焦点が自分自身を高めることに集中しているので、全くの優先順位が逆になっています。安息日はキリストのご品性とキリストの働きの目的を学び、貧しい人々や病いの方々や悲しんでいる人に助けの手を差し伸べる特別な日なのです。自分自身をただ満足させる日ではないということです。

イザヤ書58章のリビングバイブル訳にはこのように記されております。

「(9節)‥‥あなたのすべきことは、弱い者を虐げることをやめ、偽りの告発をしたり悪質なうわさを流したりするのをやめることです。 (10節)飢えた者に食べさせ、困っている者を助けなさい。そうすれば、あなたの光は暗闇の中から輝き渡り、あなたを取り囲む暗闇は真昼のように明るくなります。 (11節)主は片時も休むことなくあなたを導き、ありとあらゆるすばらしいもので満足させ、いつも元気で満たしてくださいます。あなたは、よくうるおった庭園のようになり、豊かに水がわく泉のようになります。」

 

5.水曜日:バランスを見いだすための時

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタイによる福音書12:7-8)。安息日はイエス様の日です。安息日にしてはいけないルールを厳格に守ることが安息日に最大の目的ではありません。もしそうであるなら、安息日の過ごし方は一日中寝ていることが大正解となるからです。

イエス様は当時のユダヤ人の安息日の過ごし方は間違っていることを大胆に指摘しました。律法学者たちは、自分を義とするための安息日になっていたのです。ですから、イエス様が安息日に苦しんでいる病人を癒したことで、病人が癒されたことよりも安息日の過ごし方のルールが破られることが彼らにとっては絶対に見過ごすことのできない問題として、イエス様の日にイエス様を殺してしまおうと考えたのです。とても恐ろしい安息日の過ごし方です。安息日に人を殺すことを考えたのです。これも安息日に罪を犯していることになるのではないでしょうか?

ですから、安息日に人を批判しているばかりのクリスチャンはどうでしょうか? 安息日に教会に来て、人を見て、自分と比べて、「あの人はダメだ!!」と文句ばかり言って、裁き合うのが安息日の過ごし方ではないはずです。安息日はキリストの愛の深さを学び、自分の中に罪を見出して悔い改めて、キリストのように生きることを再献身して、キリストの愛を実践するのが安息日ではないでしょうか。

 

6.木曜日:交わりのための時

「ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。」(使徒行伝16:13、14)

使徒パウロは安息日には会堂やユダヤ教の人々が集まる場所に出かけて行って、そこでイエス様が救い主であるというお話をしました。そうして、ユダヤ人や異邦人たちがキリストを受け入れる場所となったのです。

毎週安息日に教会に集まることによって、そこで聖書のみ言葉を共に学び、証を聴いて、教会の周りの人々への宣教や奉仕活動を行ったりすることができます。安息日の教会は交わりによって教育的な体験の場所となりうるのです。

 

7.金曜日:さらなる研究

「ユダヤ人が神から離れ、信仰によってキリストの義を自分の義としなかった時、安息日は彼らにとって、その意義が失われた。サタンは自分自身を高め、人々をキリストからひき離そうとつとめていた。そして彼は、安息日がキリストの力のしるしなので、これをゆがめるために働いた。ユダヤ人の指導者たちは、神の休みの日をやっかいな規則づくめにすることによって、サタンの意図を達成した。キリストの時代に、安息日はまったくゆがめられていたので、安息日を守ることは、愛に富まれる天父のご品性よりはむしろ利己的でわがままな人間の品性を反映していた。ラビたちは、神が、人の守ることのできない律法をお与えになっていると事実上言っているのも同然だった。彼らは、人々に、神を暴君としてみさせ、神のご要求通りに安息日を守る時に、人は無情になり残酷になると考えさせた。このような誤った観念をとり去ることがキリストの働きであった。ラビたちは冷酷な敵意をいだいてキリストについてまわったが、キリストは彼らの規則に一致しようとする様子さえお見せにならないで、神の律法に従って安息日を守りながらまっすぐ進まれた。」

(E・G・ホワイト著 『各時代の希望』第29章「安息日」p364)

 

【質 問】

1.安息日にイエス様とどのような会話、質問、交わり、おもてなしをしようと考えていますか?2.今までの人生の中で最高の安息日はどのような感じだったでしょうか? どうしてそう感じたのでしょうか?

3.「安息日を聖とせよ」とはどういう意味だと思いますか?