安息日学校部

第1課 聴覚しょうがい者用:吉村 忍

2021年第1期「教育」(イザヤ書―わが民を慰めよ 

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第1課 アイデンティティーの危機 吉村 忍

 

1.安息日午後

私は小学校低学年の頃まで、出かけると必ずと言っていいほど迷子になりました。迷子になって親の姿が見えなくなった時のなんとも言えない恐怖、不安をはっきり覚えています。それと同時に、親の姿が見えた時、親の声が聞こえた時の嬉しさもはっきり覚えています。迷子になるたびに親には怒られました。親の背中に揺られて家に帰った時、親のもとにいられる安心感は他の何ものにも代えることができない大きな喜びでした。子供は、助け、育ててくれる親に依存しています。子供にとって親の存在はとても大きな存在です。

ユダヤの民は、自分たちが神様に依存しているということを忘れてしまったため、契約の民としての真のアイデンティティー(独自性)を失ってしまいました。「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。」(イザヤ書1:2)何と悲しい響きを持つ言葉でしょうか。私たちも、神様に依存しています。

 

2.日曜日:天よ開け

イザヤ書は、「アモツの子イザヤ」(イザヤ書1:1)という言葉から始まっています。イザヤの名前には、「ヤハウェ(神)は救い」という意味があります。イザヤは、神様によって南王国ユダの預言者の務めに召されました。エレン・G・ホワイトは『国と指導者』上巻、p.270に、「王族の出であったイザヤ」と書いておられます。

イザヤ書1:2に、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。」と記されています。何と悲しい響きを持つ言葉でしょうか。イザヤの時代は、社会的、道徳的に堕落し、神の民の間には不信仰が広がり、心はかたくなな状態になっていました。私たちも、イザヤ書1:2の言葉を厳粛に受け止めたいと思います。

「聖霊の神様が、私自身の罪に気づかせてくださることを感謝いたします。罪が示される時、心からの悔い改めへと導いて下さい。」と祈りたいものです。

 

3.月曜日:腐敗した儀式主義

「主の言葉を聞け。」「神の教えに耳を傾けよ。」(イザヤ書1:10)神様は日々、私たちに御言葉をもって語りかけておられます。神様は、今日も私たちに神様のみこころを示してくださいます。イザヤ書1:11~15には、神の民と公言する者たちが形式主義に陥っていたことが記されています。彼らは、儀式と定めを厳格に守ることで満足していたのです。彼らは、形式主義、儀式主義という霊的病にかかっていました。「彼らが神とその契約に忠実である限り、そこで行われる儀式と祈りは効力を持っていました。同じ契約の民に対する正しくない行為を悔い改めないまま犠牲を捧げる物たちは、儀式を偽りのものにします。」(月曜日本文)

神様は、常に私たちの心をご覧になっています。神様は今日、このように語っておられます。「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び」(イザヤ書1:15~17)

 

4.火曜日:赦しについての議論

神様は、ユダの民に罪に汚れた現実の姿を示されました。罪に汚れた姿が示されるということはつらいことです。しかし、罪が示されることは有難いことです。なぜなら、自らの姿に気づかされることによって、そこから私たちは変えられるからです。神様は、ユダの民に改革を迫られます。「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」(イザヤ書1:18)。神様は、ユダの民と論じ合って、彼らを悔い改めと回心に導こうとしておられました。神様は、ユダの民に変化を求められました。ユダの民にはまだ希望があったのです。私たちも同じです。神様が私に求められることは、私の心が変えられることです。

 

5.水曜日:食うか食われるか

「『もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる』。これは主がその口で語られたことである。」(イザヤ書1:19~20 口語訳)「もし~なら」「しかし~ならば」という言葉に注目したいと思います。

イザヤ書1章には、申命記30:19~20にあるイスラエルの民との契約を記したモーセの言葉が用いられています。「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」(申命記30:19~20)

いつの時代においても、神様は、生と死、祝福と呪いを人々に語られました。私たちは聖書を通して、神の民が喜んで神に従った時に与えられた祝福の記録からは大きな励ましと慰めと希望を得ることができます。しかし、反対に神の民が神に背いた時に経験した悩みと痛みと苦しみの記録からは、神様が私たちに対して同じ失敗と過ちを繰り返してはいけないという警告として心に留めることができます。

 

6.木曜日:不吉な愛の歌

イザヤ書5:1~7に記されているたとえは、「愛の歌」です。イスラエルの民に対する神様の愛はどのように表現されているでしょうか。

2節「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。」

2節「その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。

4節「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに」

この聖句から、神様がどれほどイスラエルを愛し、心にかけ、配慮してくださったかがわかります。上記の2節と4節には、「良いぶどうが実るのを待った」とあります。神様は、どのようなお方でしょうか。神様は、忍耐強く「待ってくださるお方」です。神様は今日も、私たちを愛するがゆえに「待って」くださっているのです。神様は、私たちの応答を期待しておられます。神様は、私たちが神の赦しを受け入れるチャンスを与えてくださいます。このことを思う時に、ただただ感謝するばかりです。

エレン・G・ホワイトは、『キリストの実物教訓』p.263に次のように書いておられます。「神はこの民に大きな特権を与え、ご自分に満ち満ちている富によって彼らを豊かに祝福された。神は彼らが実を結ぶことを期待された。彼らはみ国の精神をあらわすべきであった。堕落した邪悪な世界のただ中にあって、彼らは神のご品性をあらわすべきであった。」

 

7.金曜日:さらなる研究

今週の学びを振り返ってみたいと思います。

1.私たちにはどのような危険があるでしょうか?

自分が神様の民であることを忘れ、自分の力に頼ったり、形式的な信仰生活に陥る危険があります。

2.私たちにとって必要なことは何でしょうか?

①神様によって救われ、神の民としていただいたことを思い起す。

②聖霊の神様の助けを通して、自らの姿に気づかせていただく。

③罪の赦しの約束を信じ、御言葉によって歩むことを選ぶ。