安息日学校部

第1課 聴覚しょうがい者用 張田 礼

2025年第3期「出エジプト記
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第1課  抑圧 その背景とモーセの誕生(7月5日)  張田 礼

 

1.安息日午後

[暗唱聖句]

その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記2:23~25新共同訳)

 

今期の学びは出エジプト記になります。出エジプトではたくさんの神様の業(助け)がイスラエルの民に与えられました。イスラエルの民に与えられた神様の業(助け)を再確認することは、現代に生きる私たちにとっても、神様が私たちを救われる様子を、物語のような形でわかりやすく学んでいくことができると思います。

また忘れてはいけないことは私たちを救われる神様は忍耐のお方であるということです。イスラエルの民の様々な出来事は苦しみが多かったです。苦しみの中で涙を流すご自分の民を救われることを決められた神様の忍耐と言葉には確かな希望があります。神様が私たちに与えられるものを信仰によって受け入れられることが必要だと思います。

 

2.日曜日:エジプトの神の民

出エジプト記の1章から学びます。出エジプト記はヤコブの家族を1人ずつ紹介していくところから始まっています。ヤコブの土地は飢饉に見舞われ、ヤコブの11番目の息子ヨセフの計らいで家族ともどもエジプトで新しい生活を始めました。しかし時がたつにつれ最初は70人ほどだった家族たちもとても多い数(壮年男子だけでおよそ65万人)に増えていったのでありました。

とても増えた人々は後のエジプトの王に危険だとされてしまい、奴隷として働かされるようになっていったのです。1章の11節から14節にはエジプトの王がイスラエルの民につらい働きをさせ、生活を苦しいさせている様子が書かれています。しかし12の聖句には「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」とあります。人間からは希望を持てない悪い状態に見えてもイスラエルの民は奴隷から解放されていくように、神様はご自分の民を救われるのです。

 

3.月曜日:歴史的背景

出エジプト記でのイスラエルの民の苦難が始まった様子が創世記に書かれてあります。ですから創世記をまずよく読み、理解することが大切です。

それがヨセフ物語です。最初はヤコブという名前だった人がのちにイスラエルとなり、その子孫がイスラエルの民となっていきました。イスラエルの民がエジプトで生活できていたことにはヤコブの息子であるヨセフの功績(大きな働き)がありました。彼はファラオからも信頼が厚く、エジプトにしたあらゆること(ファラオの夢の意味を教え、その夢に従って飢饉に備えて穀物を蓄えた)からヘブライ人に協力的でした。しかしヨセフのことを知らない後の王たちがイスラエルの民(ヨセフの子孫)を奴隷として働かされるようにし始めたのです。ですがヨセフを導いた神様は同じようにヨセフの子孫を忘れるようなことはなさらず、いつもヨセフの子孫のそばにおられ、信じることのできるお方として存在しています。

 

4.火曜日:ヘブライ人の助産婦たち

ではなぜイスラエルの民たちは奴隷として働かなければならなかったのか。なぜ苦難のときが与えられたのか。神様はヨセフの子孫を忘れたことはないかもしれないが、イスラエルの民たちに苦難のときが与えられたという事実に疑問を抱いてしまうことはあると思います。しかし神様の約束として詩篇50章15節の言葉が与えられています。

 

「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」詩篇50:15

 

苦難のときにこそ神様は私たちを救ってくださるのです。イスラエルの民(ヨセフの子孫)はそれを経験したのでした。ファラオの助産婦たちは苦難の中にあってもファラオではなく神様の力を信じました(出エジプト記1:9~21参照)

ファラオは行動を抑えることはできても信仰を抑えることはできません。本当の意味で助けてくださるお方は神様唯一なのです。

 

5.水曜日:モーセの誕生

イスラエルの民を奴隷として働かされるようにし始めたエジプトの王は、イスラエルの男児を殺せと命令しました。イスラエルの民たちの子孫を滅ぼそうと考えたからです。そんな中で生まれてきたモーセはその誕生と生涯に神様の導きが示されています。出エジプト記2章2節に、生まれてきたモーセのことをかわいいと表現されています。かわいいという言葉の原語には「良い」という意味があります。これは神様が人間をつくったときにおっしゃられた「はなはだ良かった」(創世記1:31 口語訳)という言葉と同じ特徴を示しています。エジプトの王の命令で親は子を手放さないといけない中でモーセを通じて神様はイスラエルの民をお救いになられたのです。生まれや育ちも関係ない、どんな方でも用いられる神様の精神です。新約聖書におけるパウロはそのうちの一人でした。Ⅰテモテ1章15節からの聖句にはパウロ自身が改心を経て用いられたことによる証が語られています。

 

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」Ⅰテモテ1:15、16

 

モーセの名前には「引き上げられた」という意味がありますが、神様によっても引き上げられ用いられたのです。いつの時代も神様はモーセと同じく私たちを用いられるのです。

 

6.木曜日:計画の変更

その後モーセはエジプトの養子として育ちましたが、彼は人を誤って殺してしまう事件を起こしてしまいました。ファラオから追われる身となり、エジプトを飛び出したことによってモーセはミディアン地方にたどり着き、そこで神様と出会うことになるのです。

私たちはしばしばこのモーセの生い立ちにおいて、エジプトを出てからの神様の導きに目を向けがちではありますが、重要(大切)なことは初めから神様がモーセを選んでおられたということです。福音書の中でイエス様がおっしゃられた言葉があります。それがヨハネによる福音書15:16です。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」ヨハネ15:16

 

ここに神様の変わらない愛が示されています。人が思うよりもっと前に、生まれたときから私たちは神様に選ばれているのです。イザヤの時代にイスラエルの民に語られた言葉があります。イザヤ46章3,4節です。

 

「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」イザヤ46:3,4

 

モーセは120年間の人生を歩みます。そのどんなときも神様に導かれていたのです。最初の40年をエジプトで次の40年をミディアンで最後にイスラエルの民と40年過ごしました。その人生の中で様々な物語がありました。エジプトの王はモーセを殺そうと決めました。しかしそのたびに救われる神様の姿や、用いられていく人々に私たちは神様に対する信仰を確かめることができます。必ず必要な時に必要なものを与えてくださる神さまがおられるということです。

イスラエルの民は私たち自身と見てもいいかもしれません。弱い私たちは何度も失敗をしますが、そのたびに神様の愛で忍耐され、私たちに新しい道を備えてくださる神様を感じ取れるでしょう。この出エジプト記の学びは私たちの生活での学びでもあります。最後まで真剣に学んでいきたいと思います。

 

7.金曜日:さらなる研究

☆話し合いのための質問(下記のことをグループで話し合ってみましょう)

モーセのように私たちが用いられているということを私たちはどう受け止めていくべきでしょうか。また、神様の計画をより信じて歩むためにはどのようなことが必要でしょうか。