安息日学校部

第9課 聴覚しょうがい者用:寺内三一

2021年第4期「申命記に見る現代の心理」

PDFダウンロード ルビ付きはこちらからご覧ください

第9課  彼らの心を変え  寺内三一

 

1.安息日午後:今週のテーマ

今週は、私達の救いになくてはならない重要なものである「悔い改め」を申命記から学びます。

私達が生きていく中で、動かしがたい事実があります。その一つが「人間は(私は)~罪深い~不完全である」という事です。この事実だけであれば、罪人の私達には希望がありません。

しかし、聖書には私達に希望をもたらすもう一つの事実が示されています。それは、「神様は罪人を愛するがゆえに、私達の罪の救いのために、神様の御子イエス様が十字架にかかって下さり、私達の罪の身代わりに罪を負って下さったので、私達はもう罪の裁きを受ける事がなく、罪が赦されて救われる」という「良き知らせ」である「福音」という事実です。

「私達は(すべての人間は)神様の前に罪人である」という事実と、「神様の御子のイエス様を信じる者はすべて救われる」という事実、この二つの事実を結びつけるものが「悔い改め」なのです。

悔い改めとは、罪人が「自分の罪を知り(罪を認め)、罪そのものを悲しみ、神に罪の赦しを願い求め、最終的にその罪から離れる事です。そして、救い主イエス様を信じて私達は救われるのです。

 

2.日曜日:ミー・イッテン

旧約聖書には、本来の意味とは異なる意味に用いられる慣用句があります。その慣用句の一つに「(ヘブル語)ミー・イッテン」があります。字義どおりだと「誰が与えるのか」と訳せますが、旧約聖書で「ミー・イッテン」は、「願い、願望」を意味します。

問1の、申命記5:22-29には、人の願いと神様の願いの二つの願いが書かれています。

人のモーセへの(神様への)への願いは申命記5:27です。「どうか、あなた(モーセ)が我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します」。イスラエルの民は「神様の言葉を聞いて実行したい」と願っているのです。その言葉を聞いた神様のイスラエルの民への願いの言葉は申命記5:29です。「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように」。

人間は「神のかたち」(創世記1:27 口語訳)であり、神様と同じ霊的存在ですから自由意志を持っています。人間はロボットとは違い、良い事を行うか~悪い事を行うか、神様を信じるか~神様を拒むかを自分の意志で選ぶ事が出来ます。イスラエルの民は、この時、「神様の言葉を聞きたい。そして、神様の言葉を実行したい」と神様に願い求める事を選んだのです。そして、神様は、神様を選んだ人間に対して、「とこしえに幸いを得るように」と、自分を選んだイスラエルの民に幸いと祝福を与えようとされたのです。

神様の(このままでは滅んでしまう罪人への)強い願い、神様に立ち帰るようにとの悔い改めへの強い願いががエゼキエル書に書かれています。

「『悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいであろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(エゼキエル 18:27―28,31―32)。

神様は、罪人である私達一人一人の救いを強く願っておられるのです。神様は、神様の命を生きる「神の子」である私達一人一人に、愛の招き、悔い改めへの招き、救いの幸いと喜びへの招きをして下さっているのです。この神様の愛の招きを感謝して受け入れていきたいと思います。

申命記のテーマの一つは、罪人をも救おうとする神様の人への愛です。そして、神様の人への愛の招きへの人間の神様への愛の応答です。神様の愛の救いへの招きが、まさに悔い改めへの招きなのです。私達は神様の愛の招きを選び取って、神様からの祝福を豊かに受けたいと思います。

 

3.月曜日:わたしを求めよ、そうすれば見いだすであろう

神様は永遠の存在ですから、永遠の過去をも見通し、将来をも見通されます。神様は始めからその終わりを見通される先見性を持っておられます。

申命記4:23-24で神様は、「神様との契約を忘れないように、偶像を造って拝まないように」と言われています。しかし、4:25-28には、「後に子や孫の時代には、偶像を造り、拝むようになる」と予告しておられます。しかし、神様は、「彼らをすぐに滅ぼす」とは言われません。

神様は、「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。・・苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである」(4:29-31)と言われるのです。神様の恵みは本当に驚くべきものです。神様の忠告を聞かない者に対しても、すぐには滅ぼすことをしないで、神様に立ち帰るようにと悔い改めの招きをされるのです。神様は、放蕩息子の父が、ひたすらに我が子の帰りを待ち望んでいるように、私達が神様のもとに立ち帰ることを待ち望んでおられるのです。

申命記4:30の英語訳は「向きを変える」と訳されます。放蕩息子が、豚飼いの惨めさの中で、神様と父親の事を思い起こし、「私は罪を犯しました・・」と罪の告白をし、そこから立ち上がり、父の家に(神様のみもとに)帰るために、人生の向きを変える事がまさに悔い改めなのです。

悔い改めとは、「人生の向きを変えて、回れ右、前へ」という神様に向かう方向転換なのです。

 

4.火曜日:テシュヴァ

申命記のテーマの一つは、「神を選ぶ者は、命と幸いと祝福を受ける。しかし、神を選ばない者は、死と災いと呪いを受ける」というものです。ガラテヤ6:7―8にあるように「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」という原則です。

しかし、人はこの原則を何度も聞いていながら、神様から警告されていながら、自分の道を選び、罪の道を歩むのです。しかし神様は、罪人が、自分の自由意志で神の招きを受け入れ、悔い改めて神様に立ち帰る事を選ぶなら、喜んで立ち帰る者を受け入れようとして待っていて下さるのです。

悔い改めとは、神様に立ち帰る事であると言えます。問4に申命記の30:1-10には、ヘブル語の「テシュヴァ」~「立ち帰る」が3回(立ち帰り、立ち帰って、立ち帰る)書かれています。

神様は三度も(何度も)ご自分のもとに立ち帰るなら、受け入れ、祝福を与えると言われるのです。神様は、私達が罪や失敗を何度したとしても、その都度、私達が罪を認め、罪を悲しみ、悔い改めて神様に立ち帰るなら、私達を受け入れ、ゆるし、立ち上がらせて下さるのです。神様の愛は本当に深いのです。神様の恵みは本当に大きいのです。

 

5.水曜日:心を尽くし

愛には「~だから愛する」という条件付きの愛(お金があるから~能力があるから~きれいだから・・愛する愛)と、「~にもかかわらず愛する」という無条件の愛(お金がなくても~能力がなくても~きれいでなくても・・愛する愛)~神様の愛(ギリシャ語のアガペー)があります。

罪を犯したにもかかわらず~失敗したにもかかわらず~従わなかったにもかかわらず・・神様は、神様の愛と恵みと慈しみを信じて神様のもとに立ち帰る者、悔い改める者を祝福して下さるのです。

悔い改めと似たものに「後悔」があります。後悔は、犯した罪そのものを悲しむのではなく、罪の結果の苦しみを悲しむのです。創世記4章のカインやイエス様の弟子のユダがそうです。交通違反をした結果である罰金を払うのが悲しいのであって、交通違反をした事を悪いと思っていないのです。自分の思う通りにならなかった事や自分が損をした事が悲しいのです。

真の悔い改めは、罪そのものを悲しむのです。そして、罪から断固離れたいと思うことなのです。

 

6.木曜日:悔い改めて回心せよ

新約聖書にも悔い改めは救いに必要な事として書かれています。救い主イエス様のお働きの前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのメッセージを語りました。多くの人々は、ヨハネのもとに行き「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた」のです(マタイ3:6)。救いの祝福を受けるためには(福音にあずかるためには)、罪を認め、罪を悲しむ悔い改めが欠かせないのです。ですから、悔い改めと福音は一つなのです。

イエス様が天に行かれた後、聖霊の満たしを受けたペトロは、人々の前で、神様の働きと、人の罪とイエス様の救いを語りました。聞いていた人々は「大いに心を打たれ・・『わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。するとペトロは彼らに言った『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリス十の名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」(使徒 2:37-38)。ペトロを通して働いた聖霊が人々に働き、人々は悔い改め、神様の招きに従って多くの人がバプテスマを受けたのです。

『キリストへの道』の「悔い改め」の章にこうあります。「人の心が神の聖霊の感化に服従するならば、良心は呼びさまされ、罪人は神の聖なるおきてのいかに深く、また聖なるものであるかを悟り、これこそ天地を治めておいでになる神の政治の基礎である事を知るようになるのであります。『すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:9)とあるその光に心の奥底を照らされ、また、暗きにかくれた事柄を照らし出されて、心も魂も自分は罪あるものであるという思いでいっぱいになります。そして正しく、また人の心を探りたもうエホバの神の前に、罪と汚れのまま立つことを恐れます。こうして神の愛、聖潔の美、純潔の喜びを認め、自分もきよめられて神との交わりに立ち帰りたいと切望するようになるのであります。」 神様の愛の招きに逆らわずに応えていく時、聖霊の導きに素直に従う時に、私達は、悔い改める事ができ、救いの祝福に導かれるのです。

 

7.金曜日:さらなる研究

「クリスチャンの経験が進むにつれて、悔い改めも深まっていく」とあります。

悔い改めには二つあります。一つは、神様を信じていない人が、悔い改めて神様イエス様を信じて救われるという、神様を信じていない人の悔い改め。もう一つは、すでに神様を信じて救われているクリスチャンの悔い改めです。

『キリストへの道』の「弟子としての証拠」の章にこうあります。「イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは、自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは・・人を生かす神のみたまの力が働いている証拠であります」。神様、イエス様を見る目が清くなればなるほど、神様イエス様という鏡の曇りがさらにとれて、その鏡に写る自分の小さな汚れに気づけば気づくほど、その違いと足りなさを思い、悔い改めに導かれるのです。それはイエス様に近づいている証拠であり、成長のしるしです。神様イエス様を信じる者として私達は「日々~悔い改め、日々~赦され、日々~神様からの愛を受けて」歩んで行きたいと思います。

ルカ15章の放蕩息子は、父の家に帰る前の悔い改めだけではなく、父の家に帰ってからは、父の事を知れば知る程、自分の至らなさに気づき、日々悔い改め、父の品性に父の愛に近づこうとしたのではないでしょうか。日々、父と交わり、父に励まされ歩んでいったのではないでしょうか。

私達も、父なる神様と日々交わり、イエス様の歩みに従い、ご聖霊の導きに従いつつ歩んで行きたいと思います。