安息日学校部

第8課 聴覚しょうがい者用: 平本 光

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

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第8課 「この最も小さい者」 眞田 治

 

1.安息日午後

イエスさまの教えは私たちの生活に役立つものであり、イエスさまの教えを知ると、神さまを信じて生きるとはどういうことかが分かるようになります。主イエスさまは、間違ったことをなさいませんでした。イエスさまは親切なことをなさいました。イエスさまは、やさしい人でした。イエスさまが地上にいらっしゃったときの生き方を知れば、私たちがどう生きたら良いのかが分かるのです。イエスさまのお手本を見習って生きる私たちは、他の人たちを助けるようになります。

皆さん、今期7月から9月の安息日学校ガイドの題は『この最も小さい者―助けを必要としている人たちへの奉仕』ですね。そして今週8月17日から24日のタイトルも『この最も小さい者』ですね。この3ヵ月間の中で、今週が一番たいせつかも知れません。さあ、お祈りをして勉強を始めましょう。

「天の神さま。今週は『この最も小さい者』という勉強をします。でも、勉強だけが大切なのではありません。イエスさまは親切だったように私も親切にできることのほうが、もっと大切だと思います。他の人たちを親切に助けることができる私になれますように。イエスさまのお名前によって、お祈りいたします。アーメン」

 

2.日曜日:山上の説教の導入

マタイ福音書5~7章に、「山上の説教」というイエスさまによる説教が書いてあります。その最初の箇所、マタイ福音書5章3節から10節を読んでみましょう。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

「心の貧しい人々」は、どうして幸せなのでしょうか。それは、自分は神さまや他の人たちから助けてもらう必要があることに気がついているからです。そういう人は、神さまに助けられて天の国に入れていただけます。そしてそういう人は、助けてほしいと思っている他の人たちを助けることができます。

「悲しむ人々」は、どうして幸せなのでしょうか。それは、自分が完全な人間でないことや他の人たちに迷惑をかけたことがあることに気がついていているからです。そういう人を神さまは慰めてくださいます。そしてそういう人は、悲しんでいる他の人たちを慰めることができます。

「柔和な人々」は、どうして幸せなのでしょうか。柔和というのは、おだやかなことです。イヤなことがあっても神さまを信じ続けます。柔和な人々は怒りません。あまり怒らないから、たくさんの人たちと友達になれ、いろいろな場面で活躍できます。地を受け継ぐとは、活躍の範囲が広く、長続きすることです。

「義に飢え渇く人々」は、どうして幸せなのでしょうか。それは自分が持っていないものを神さまからいただく必要があると、気がついているからです。「義」は、持っている人が持っていない人に与えることです。神さまから与えられる人は、救われている喜びに満たされます。そして他の人たちにも、神さまがくださる義のことを伝えます。

「憐れみ深い人々」は、どうして幸せなのでしょうか。憐れみというのは、他の人の苦しい気持ちを理解することです。他の人の気持ちを理解したら、同じ気持ちになれ、友達になります。だから幸せなのです。そしてそういう友達が増えると、自分が苦しい気持ちのときには他の人たちが同じ気持ちになって、理解してくれます。

「心の清い人々」は、どうして幸せなのでしょうか。それは、今しなければならないことに集中するからです。そういう人が神さまに祈るときは、神さまのことだけ考えます。だから神さまに出会うことができるのです。そしてそういう人々は、他の人たちを助けるときにも助けることに集中するので、他の人たちから信頼されます。

「平和を実現する人々」は、どうして幸せなのでしょう。平和というのは争いがないことで、他のものに邪魔されないで仲良く近づけることです。他のものに邪魔されないで神さまに近づけると、やさしい親のような神さまの愛が分かります。そしてそういう人々は、他の人たちとの間にも争いがありません。みんなが「神の子ども達」です。

「義のために迫害される人々」は、どうして幸せなのでしょうか。「義」は、神さまだけが持っている救いを、持っていない私たちが神さまから受け取ることです。迫害とは救われるのを邪魔されることですが、だれかに邪魔されても救いを受け取ろうとする人々は、必ず天の国に入れてもらえます。そしてそういう人々は、他の人たちが救いを受け取るのを、ぜったいに邪魔しません。救いの大切さを知っているからです。

 

3.月曜日:善をもって悪に勝つ

ローマ書12章19~21節

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

皆さん、悔しい思いをしたこと、ありませんか? 他の人からイヤなことをされて、仕返ししたいと思ったことは、ありませんか?(仕返しと復讐と報復は、だいたい同じ意味です。)

でも、神さまは言われます。「あなたは他の人に仕返ししてはいけませんよ。もしも仕返しが必要だったら、あなたの代わりに神が相手の人に対して仕返ししてあげます」。

では、もしもあなたが仕返ししたい相手がいるとして、あなたは、どうすれば良いのでしょうか。相手の人に、あなたは親切にするのです。相手の人がお腹が空いていたら食べさせてあげ、相手の人がのどが渇いていたら飲ませてあげるなど、親切にします。すると、相手の人は思います。「自分はあの人に親切にしなかったけど、あの人は自分に親切にしてくれた。申し訳ないことをした、自分は反省しなければならない」。

この「自分は反省しなければならない」という気持ちを相手の人に持たせるのが、神さまによる仕返しなのです。さっきの聖句ローマ書12章20節に「燃える炭火を頭に積む」という言葉がありますが、これは、頭が熱くなるぐらいに相手の人が反省するという意味です。

神さまは言われます。「仕返ししたい相手がいれば、その相手の人に親切にしなさい。すると、その相手の人が反省するように、神が導いてあげます」。神さまの言葉どおり親切にすることが「善をもって悪に勝つ」ことです。

 

4.火曜日:善いサマリア人

1人の律法の専門家が、イエスさまに質問しました。「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ福音書10章29節)。その質問にイエスさまが答えて話された物語が、有名な「善いサマリア人のたとえ話」です。だいたい、こういう内容です―。

ある人が歩いていると、強盗に襲われて大ケガをし、死にそうになって倒れていました。そこに祭司が通りかかりましたが、大ケガをした人を助けないで立ち去りました。レビ人も通りかかりましたが、大ケガをした人を助けないで立ち去りました。そして、サマリア人が通りかかりました。大ケガをした人とサマリア人は仲が悪い民族なのですが、そのサマリア人はケガをした人を助けてくれました。祭司とレビ人とサマリア人のうち、大ケガをした人の隣人になったのは、だれでしょうか?

もちろん答えは、サマリア人ですね。

さっきの律法の専門家の質問に対して、イエスさまは、隣人は親切にする人ですと、教えようとなさったのです。しかしイエスさまは、もっと大切なことを教えておられます。それは、「行って、あなたの助けを必要としているすべての人に親切にしなさい」、「すべての人の隣人になりなさい」ということです。

本当の宗教は、やさしさや愛を実行することです。本当の宗教は、他の人たちに最高の幸福を届けることです。それが、イエスさまの教えです。

 

5.水曜日:金持ちとラザロ

ルカ福音書16章19~31節には、イエスさまがお話しされた「金持ちとラザロのたとえ話」が書いてあります。だいたい、こういう内容です―。

ある金持ちの玄関の前に、ラザロという名前の物乞いの男性がいました。でもラザロは、その金持ちから親切にしてもらったことはありません。あるときラザロは死んで、天の国に入れてもらえました。そして金持ちも死にましたが、行き先は苦しい陰府でした。金持ちが天を見上げると、ラザロだけでなくアブラハムもいます。金持ちは大声でアブラハムに助けを求めました。でもアブラハムは助けることができません。天の国と陰府とは、行き来することができないのです。そこで金持ちは、まだ生きていて地上で生活している家族の所までラザロに天の国から行ってもらい、親切な生活をするように伝えてほしいと、アブラハムにお願いをしたのです。しかしアブラハムは、この願いのようにすることも、できませんでした。すでに聖書があるので、ラザロの言葉ではなく聖書の言葉のように生活すれば良いからです。

さて、この話、たとえ話ですから、すべてが本当の出来事なのではありません。陰府と天の国との間で会話ができるとか、「滅び」という意味の陰府でも生き続けることができるとか、実際のこととは思えません。本当の出来事ではないのです。

出来事としては本当ではなくても、この話によってイエスさまは大切なことを教えてくださっています。

  1. この世で私たちがどう生きるかが、私たちが天の国に入れるか入れないかを決めるのに大切である。
  2. 聖書を信じて生活しましょう。聖書を書かれた神さまを信じて生活しましょう。
  3. 困っている人たちには親切にしましょう。

火曜日に学んだ「善いサマリア人」のように聖書に書いてある親切な生き方をすることは、私たちが天の国に入れてもらえるためにも大切なことなのです。

 

6.木曜日:この最も小さい者

マタイ福音書25章14~30節には、有名な「タラントのたとえ話」が書いてあります。だいたい、こういう内容です―。

ある人が旅に出発する前、自分の財産を従業員たちに預けました。それを資金にして商売をさせるためです。1人目には5タラント(約3億円)、2人目には2タラント(約1億2千万円)、3人目には1タラント(約6千万円)。しばらくして、その人は旅から帰ってきました。3人がどのぐらい稼いだかを確かめます。1人目は5タラントを稼いで計10タラント。2人目は2タラントを稼いで計4タラント。しかし3人目は、そのお金を隠しておいたので増額していません。その3人目は手元の1タラントを取り上げられて10タラントの人に渡すことになり、それどころか、3人目の従業員さんは追い出されてしまいました。

さて、この話で、旅に出て帰ってくる人はイエスさまのことです。イエスさまは天の国に旅立たれましたが、再びこの世に戻ってこられます。それを再臨と呼びますよね。イエスさまが再臨なさる前に何をしているかが大切なのです。自分にできることをしている人たちは、5タラントとか2タラントの人たちのように、イエスさまが再臨なさるときに、ほめられます。でも、自分にできることを隠している人は、1タラントの人のように、追い出されてしまします。

では、私たちに「できること」は、なんでしょうか。

マタイ福音書25章31~46節の、「すべての人々を分ける話」を考えます。だいたい、こういう内容です―。

イエスさまが再臨なさるときに、すべての人々が右か左かに分けられます。右側は、イエスさまに親切にした人々でした。でも右側にいる人々は、自分たちがイエスさまに親切にした覚えがありません。そこでイエスさまがお答えになります。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。「この最も小さい者」というのは、お腹が空いている人、のどが渇いている人、寝る所がない人、服を着ていない人、病気の人、牢屋にいる人などでした。そういう、弱かったり困っていたりする人たちに親切にすることが、イエスさまに親切にすることだったのです。一方の左側の人々は、イエスさまに親切にしなかったとイエスさまから言われます。しかし左側にいる人々は、自分たちはイエスさまに親切にしたつもりなのです。そこでイエスさまがお答えになります。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と。こうして、永遠の命を受け取る人々と、永遠の滅びを受ける人々とが分けられます。

では、皆さん、さっきの「タラントのたとえ話」で、「できること」をした人たちはほめられましたが、「できること」をしなかった人は追い出されました。その「できること」とは、なんでしょうか。そうです、親切にすることですね。弱っていたり困っていたりすることが、永遠の命か永遠の滅びかを決めるのです。

私たちは、だれかに親切にするために遠くに行く必要などありません。いつも近くで会っている人たちのために、できることがあります。

 

7.金曜日:さらなる研究

イエスさまは、みんなを愛してくださっています。イエスさまの目で見ると、みんな愛されている子どもです。イエスさまの目からは、敵と友達の違いはありません。

私たちがイエスさまのことを知れば知るほど、どんな人たちのことも私たちは大切にするようになります。イエスさまは、私たちを親切な人へと、変えてくださるのです。