安息日学校部

第7課 聴覚しょうがい者用:平本 光

2020年第4期「教育」(天国に備える教育) 

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第7課  教育における礼拝 平本 光

 

1.安息日午後  今週のテーマ

礼拝は、人間の思いやりの心や愛情など人間の心の内にある生まれたときから持っている性質の一部です。誰かから※1強制されて礼拝をするのではなく、イエス・キリストを愛しているから自分で選んで礼拝をすることができます。神様をよく知らないけれど、連れて行ってもらっているから礼拝しているということもあるかもしれませんが、礼拝は他の人から※1強制されるものではなく、自らのイエス・キリストを信じていくための体験として重要(大切)です。どのように礼拝をするのか、誰を礼拝しているのかなど正しく礼拝することについて学んでいきます。

※1強制されて:自分の意思でなく他の人から命令されて

 

2.日曜日:私たちはみな何かを礼拝している

古代の神々は、礼拝する人が気に入った形や必要な機能を持つものとして信じられていました。(古代の神々という表現が偶像を指しております。昔の人たちがつくった偶像は、その偶像を礼拝している人たちが願うものをくれることを期待して創造されているということを伝えたかったです。)信じている人は神が喜びそうなものをささげると、その代わりに助けてくれるという考えで礼拝していました。雨の神は雨を降らせ、作物を実らせ収穫を与えてくれる。子宝を与えてくれる神や、戦争に勝てるように守ってくれる神、自分たちの困ったことを助けてくれる自分に都合のいい神を考えていきました。ですから、考えた神様が自分の思った通りに働かないとわかれば捨てて、ほかの人が考えたもっと利益を与えてくれる神を礼拝するように選んでいきました。必要な時に晴れになり、また雨を降らせることができないなら、事故から守ってくれないなら、働かなくても食べていけるようにしてくれないなら、苦しみを与えるような神なら‥と役に立たない神様には価値がないので捨てて、もっと自分たちが神を利用して自分は神以上の存在として過ごすことを選んでいたのです。期待通りに働いてくれるのだったら愛して、いつでも注意して、その神を中心に生きていこうとするのです。しかし、著述家(書物を書くことを仕事としている)デイビッド・フォスター・ウォレスは、間違ったものを礼拝するなら、それは「あなたに生きがいを与えるけれども、それはあなたを苦しめて殺すでしょう」と警告しています。

 

3.月曜日:「その子らに語り継がなければならない」

古代イスラエルの人々が子どもたちに教えるべき具体的な教訓は、詩編78編7節にあるように、子どもたちが神を信頼して、神の戒めを守ることを身につけることでした。それは、古代イスラエルの子どもたちが自分にとって都合の良いいろいろなものを自分の神にするような状態になり、神様に従わない人にならないでほしいという願いがあったからでした。神に従わない人々は、神が海を分けて古代イスラエルの先祖たちを通らせ、 昼は雲をもって、夜の間はずっと火の光をもって古代イスラエルの先祖たちを導かれ、神は荒野で岩を裂いて、そこから水を出して豊かに彼らに飲ませ、いつでも助けとなってくださったことを全て忘れたかのように、神にむかって罪をかさね、自分たちの欲しい食物を求めて、神様がどこまで自分の思うとおりに助けてくれるかを試していました。そして、思った通りにしてくれないことがわかると神様との契約を守らず、神様に従って歩むことを拒んでいきました。そのようなことが繰り返された結果を、イスラエルの人々も、また聖書を読む私たちも知っています。私たちも神を信頼して、神の戒めを守ることを身につけ、新たに神様に従おうとする人や子どもたちに伝えていくことが大切です。

 

4.火曜日:「霊と真理をもって」

礼拝の目的で重要(大切)なことはヨハネによる福音書424節「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」とあるように霊と真実の気持ちをもって礼拝することです。神様は今も生きておられ、私たちを祝福しようと待っておられます。私たちはみ言葉を聞き、神様がすでに与えてくださっている豊かな祝福を受け取り、私たちの心と体、理性、感情、霊性、つまり自分の存在のすべてをもって、神様に感謝と賛美をささげるのです。礼拝は受けるときであると同時に、ささげるときでもあります。静まって聞くときであると同時に、声たからかに賛美し、主を喜ぶときでもあります。つまり、私たちは礼拝において劇場の観客のようにではなく、積極的な参加者として自分自身をささげるのです。小さな子どもから高齢者まで、年齢を問わず喜んで参加できる礼拝を、神様は望んでおられます(教会生活ガイド22頁)。また神様に対して真実の気持ちで礼拝できるように、神様は信頼できるのか、神様は私に何を求めておられるのかを正しく理解できるように神様に対する正しい理解を持てるように聖書から学び続けることが大切です。霊とまことの両方をもって礼拝することが大切です。神を知り、神に従うことによって身につく経験と、神について私たちに示されている真理の両方がなければ、正しさを必要としない自分がよいと思うことだけを追求した礼拝になりますし、霊がなく真理だけを優先する礼拝は、喜びのないただ与えられた礼拝を感情抜きに続けている状態になります。私たちの礼拝には霊とまことが必要です。

 

5.水曜日:「聖なる輝き」

礼拝の中心はいつでも、イエス・キリストとその救済計画です。キリストの十字架によって私たちが罪から解放され、キリストの再臨によって神様がアダムとエバを創造された時のように、私たちは決して苦しむことも死ぬことも涙することもない者に再創造されるという希望が、毎週の礼拝で確認されるべきです。古代イスラエルの人々の中には、神がご自分の子を罪人のためにささげられるということを間違って理解して、罪人が罪からゆるされるためには、我が子を身代わりにしなければならないという、神の求めておられない犠牲をささげていた人たちもいました。現代の神様への礼拝の中でも間違った礼拝がされているかもしれません。イエス・キリストとその十字架による救いや再臨よりも、自分の正しい行いが自慢される礼拝であったり、今を生きる人が世の中で努力をして苦しむ生き方をして、神様を礼拝するのはこんなに苦しいのだと世の人々に示すことを中心とした礼拝や、神に従わない人は地獄に落ちますよと不安にさせて、恐怖によってキリストに導くやり方をされる方がいるかもしれません。私たちがキリストを抜きに世の中を見るときに、その先は暗闇です。暗闇が地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっています。しかし、キリストを信じる人は決して暗闇の中を歩むことはありません。なぜなら、キリストを信じる人の上には主が輝いているからです。主はこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12 口語訳)。イエス様はこの世の光です。私たち、キリストを信じる人が世の光なのではないのです。キリストを信じる人が輝きを持つためには光の源であるキリストを見上げて歩むことが求められます。イエス様が世の光です。私たちはその光を受けて、その聖なる輝きの光が私たちの上に輝いているので、私たちは決してやみの中を歩むことはないのです。

 

6.木曜日:教育における偶像崇拝

私たちは安息日に礼拝に行くとき以外は、住んでいる地域の影響を強く受けます。子どもたちは学校で流行しているアイドルやヒーローの情報やゲーム、学校の授業の内容によって、聖書から学ぶこととは異なる情報を得ます。地域によってはキリストを信じていてもお寺や神社の掃除や献金を求められ、断ることができない雰囲気の中で暮らしている人もいるかもしれません。教会から遠い地域に住んでいて十分にキリストを信じる人同士の交流が持てない人もいるかもしれません。そのような中で、聖書から学んでいるつもりでも偏った考えになったり、家族や友人が礼拝の対象になっていくことがあるかもしれません。マルコによる福音書7章でも神の教えよりも人の教えが優先されていたことに注意するように教えられています。世の中が教えている正しいとされていることと聖書が教えていることが異なるとき、私たちは混乱します。また、周りの人々との関係を優先するために正しくないものを正しいものであるように思いこんでしまうこともあるかもしれません。一人でキリストを信じる信仰を守っていくときに、比べたり間違った方向に行っていないのかわからなくなることがあるので、他の人と祈ることや聖書を学び確認することが必要です。その地域で一人だけキリストを信じる人だったとして、その人が人々をキリストに導いているつもりで間違った教えで全く別の道に導いてしまうことのないように、心から信頼して一緒に祈り、聖書を学べる仲間を持つことが大切です。

 

7.金曜日:さらなる研究

私たちがクリスチャンであるというのは、私たちがイエスの命を身に着けて、生きているということです。教育とは、私が大教師イエスと共に生きているということです。(副読本50頁)

私たちは生まれ持っている能力だけでなく、イエス・キリストを信じて、共に生きていく中で与えられる能力や品性を身に着けることができます。その品性は、言葉で伝える以上に周りの人に影響を与えます。神の子どもとされたことで得た栄光、やがて来る栄光はどんなに輝いたものでしょう。あなたはこれを見なければなりません。目をあげて、キリストからくる栄光を見なければならないのです。キリストを信じる者に与えられる祝福がどんなに大きなものなのか、その栄光がどんなに輝いたものであるかを見るなら、あなたはこの主の光を輝かせることができるようになるでしょう。今の生活がどんなに苦しくても、それがすべてではありません。クリスチャンには暗闇を照らす光があるのです。その光があなたの上に輝いています。この光に照らされることによって、私たちは現実の生活での不安や絶望を克服していく(乗り越えていく)ことができるのです。どんな暗闇の中にあっても輝くことができるのです。その光を私たちはこの世の中で輝かせていきましょう。