安息日学校部

第6課 聴覚しょうがい者用: 伊藤 裕史

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

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第6課 創造主を礼拝せよ 伊藤 裕史

 

1.安息日午後:今週のテーマ

先週のガイドが、旧約の預言者が助けを必要としている人たちへの奉仕について言っていることを学びました。今週は神の民たちが行うべき礼拝を、旧約の預言者の言葉をとおして学びます。礼拝が、単に宗教的な儀式ではなく、他の人たちへの神様の思いをいっしょに感じて、行っていくことであることを確認していきましょう。

 

2.日曜日:偶像礼拝と抑圧

出エジプトの出来事の中で、イスラエルの民たちは礼拝について大きな失敗をします。モーセがいなくなり、大きな不安を感じたとき、彼らは自分たちで金の子牛の像を造り、おがんでしまったのです。神の民が偶像への礼拝を行ってしまったのです。

偶像を礼拝するということは、真の神様への思いをすてることです。そして、それが真の神様の考え方(ここでは神様の他の人への接しかた、他の人への思い)をすてることにつながっているのです。イスラエルの民たちが金の子牛をおがんだことは、神様が考えておられた助けを必要としている人たちへの接しかたや思いを捨てたことにつながっていたのです。

このように私たちは、おがむ神様によって、自分の行動を決めているのです。

 

3.月曜日:礼拝する理由

神様は聖書をとおして、神の民は神様を礼拝するように勧めています。礼拝は神様と私たちの関係を見つめることだけではありません。私たちは礼拝で、神様のもっている性質(善良さ、正義、憐れみ)を知って、ほめたたえるのです。この礼拝をとおして、神様とのことを直接体験できなかった人たちへも伝えられていくのです。私たちも、礼拝をとおして、神様がどのような方であるかを知ることができました。

これまで私たちに礼拝で伝えられてきた神様の性質は、単に神様がわけへだてされないということだけではありません。まずしく、いじめられた人たちへのあわれみの心をもっておられる神様です。神様は、神の国であってはいけないことの間違いを地上でただしくしていく方であり、必要にこたえて下さる方です。このような神様が礼拝で伝えられてきたのです。

 

4.火曜日:信心深い抑圧者たち

イスラエルの王国では、よい王様にみちびかれ神様にしたがっていた時でさえ、まちがった神様のすがたが伝えられてきました。だから、人々を神様のもとにみちびく礼拝ではなかったのでしょう。わるいことに、まちがって伝えられていても、それが信心深いものとして行われていたのです。

そこでおこなわれていたのは、「貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつける」ことでした。(アモス8:4)だから、神様は「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。」(アモス5:21)と言われるのです。

旧約の預言者たちをつうじて教えようとしていたのは、形式ではなく、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(ミカ6:8)という、真の礼拝の回復を求めるものだったのです。

 

5.水曜日:礼拝の仕方

では、神様が求める礼拝、今回の助けを必要としている人たちへの思いが込められた礼拝とはどのようなものなのでしょうか。イザヤ書58章を読んでみて下さい。そこに、一つの礼拝の姿(助けを必要としている人たちへの奉仕のすがた)が語られています。「飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たす」(イザヤ58:10)というようなことも礼拝なのです。

私たちは週ごとの伝統的な礼拝の方法で満足しています。これは、私たちが自分の内面に目を向ける礼拝です。これはまちがってはいません。しかし、このみ言葉を読むとき、それが唯一の方法でないことに気づかされます。私たちは周りにいるすべての人に祝福を与える礼拝も持つべきなのでしょう。

 

6.木曜日:憐れみと忠実さ

イエス様は預言者ホセアの「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(マタイ9:13)と言われました。イエス様は助けを必要としている人たちのところでいっしょにすごされました。これは当時の人たちの宗教指導者の姿とは違うものです。

イエス様のマタイ23章の律法学者、ファイリサイ派の人々への言葉が、終わりの時に私たちへ向けられる言葉とならないようにしたいものです。

真の礼拝とは、天で行われている礼拝であり、神様のみちびかれた助けを必要としているすべての人とおこなう礼拝です。私たちの礼拝が、それを実現していくことができるように、これからの学びを進めていきましょう。