安息日学校部

第6課 聴覚しょうがい者用:柴田 寛

2021年第1期「イザヤ」(わが民を慰めよ 

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第6課 神を演じる 柴田 寛

1.安息日午後:今週のテーマ

今週は、一人のすばらしく力ある天使の心に、罪の思いを生じさせた“高慢”について、学びます。

 

2.日曜日:諸国民の裁き

イザヤの時代、神の民をおびやかしていたのはバビロンではなくアッシリアでした。それなのに、イザヤ書13章から始まる神の裁きの言葉が、バビロンから始まっているのはどうして? というのが「問1」の質問です。答えの一つは、バビロンが「思い上がった人間」の終わりがどうなるかを説明するのに、ちょうどよい見本だからです。バビロンの歴史をずっとたどっていくと、あの有名なバベルの塔の話にまでさかのぼります。ノアの時代に大洪水がおこりましたが、その後、思い上がった人たちがバベル(神々の門という意味)の塔を建て、人間が自ら神々に近づけようとしたのです。つまり巨大な塔を建てた自分たちを誇り、神にでもなった気分になっていたということです。しかし、創造主なる神様はその思い上がった人間たちの目を覚まさせるために言葉を乱し、混乱(バラル)を与えられました。なぜなら、人がどんなに誇ってみたとしても、神にはなれないからです。でも、サタンは常にそのように誘惑して人を滅びへと導くのです。思い上がった人間が、将来どうなってしまうかをしっておられるお優しい愛の神様は、イザヤ書13章でまず、豊かさを誇っていたバビロンへの裁きを語ることによって、今のうちに目を覚ましなさいと警告しておられるのです。火は小さなうちに消しておかないと、後で大きくなってからでは消せないのです。

 

3.月曜日:大いなる都バビロンの滅び

バビロンの王ネブカドネザル二世の時代、首都バビロンは世界の七不思議として語り継がれるほど立派な都になっていました。しかし、ここに思い上がりという落とし穴がありました。ダニエル書5章には、思い上がったバビロンの王や貴族1000人が、エルサレムの神殿から奪ってきた神聖な器で酒を飲み交わし、偶像の神々をほめたたえながら大宴会をひらいていたと書かれています。しかしその時、神の裁きが訪れました。紀元前539年のその晩、みなが酒に酔って戦えない状態になっているところに、メド・ペルシャ軍が攻めてきて、あっけなくバビロンは征服されてしまったのです。私たちはこの物語から学ばなければなりません。

 

4.火曜日:神の山から落ちた「君主」

イザヤ書14章12節の“天から落ちた者”、エゼキエル書28章16節の“神の山から追い出された者”、そして黙示録12章8,9節の“天に居場所がなくなり、地上に投げ落とされた者”はみな、人間を超えた天の存在のことを言っています。すなわちそれは、神に仕える天使の中でも特別なルシファー(イザヤ書14:12の『明けの明星』をラテン語でルシファーと言う)であり、後にその高慢さのゆえに、「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」(黙示録12:9)となった者です。このサタンこそ、「わたしは神である」(エゼキエル書28章2節)と最初に思い上がった者であり、全宇宙で最初に罪を犯した者です。バビロンの最後が悲惨な滅びであったように、サタンの最後も滅びが約束されています(エゼキエル書28章18節、黙示録20章10節)。思い上がりや高慢が、いかに滅びと直結しているかを覚え、いつもきれいな心でいたいですね。

 

5.水曜日:天の門

日曜日のところにも書きましたが、バベルは「神々の門」という意味です。しかし私たちはたとえバベルの塔に登っても、ピラミッドの頂上に登っても、そこから天の国に入ることはできません。むかしヤコブが、兄エサウから長子の特権(長男の権利や祝福)をだまし取ったことを悔いながら、ハラン目指して逃げていた時、天と地をつなぐはしごの夢を見てなぐさめられ、「ここは天の門だ」と言いました(創世記28章17節)。のちにイエス様は、このヤコブが見たはしご、天の門こそ、ご自分だと言われました(ヨハネ1章51節)。私たちは自分の行いや力で神に近づくことはできません。イエス様を通してのみ、神に近づくことができるのです。イエス様こそ、救いにいたる門なのです。

 

6.木曜日:シオンの勝利

イザヤ書24~27章の中で、「その日」という言葉が何度も出てきますが、それはバビロンに象徴される人たちの上に裁きが下る「主の日」(イザヤ書13章6,9節)です。聖書の別の箇所では、「主の大いなる恐るべき日」と表現されていますから、どんなに恐ろしい日なのだろうと心配になるかもしれません。しかし、「その日」が定められている理由にもう一度目をとめてみましょう。それは、「背後で操るサタン」(ガイド47頁)を滅ぼす“勝利の日”であるはずです。喜びの日です。確かに、サタンの声に聞き従った者にとっては恐ろしい日かもしれませんが、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(ローマ10章13節)。ですから、私たちは声を大にして、次のイザヤ書26章13節の御言葉を何度も口にしましょう。「わたしたちの神なる主よ、あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちはあなたの御名だけを唱えます。」思い上がりがつける実は死です。自分を誇りたくなったら、私たちのために神の座を捨ててこられたイエス様を覚えましょう。そこに、救いの門があるのですから。

 

7.金曜日:さらなる研究

今週のテーマは「神を演じる」でした。世の終わりには、自分がキリストだという偽預言者が大勢あらわれるだろうと預言されていますが、どんな人たちでしょうか? 日本にもそんな人が現れるのでしょうか? 簡単に見分けられるのでしょうか? ルカ6章26節には「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」と書かれています。ここで言う偽預言者とは、人にほめられることを好む人のことです。マタイ25章34節以下には、天国に入れる人の特徴が書いてありますが、それは「いつ、~したでしょうか?」と、自分がした良いことをいちいち覚えていない人、自慢しない人です。「わたしはこんなに良いことをしました!」と言う人なら、どこにでもいます。気をつけましょう。清めていただきましょう。私たちが神を演じることのないように。

 

【話し合いのための質問】

「❷高慢や尊大さは、なぜ危険なのでしょうか?」について、考えてみましょう。人を指さすのではなく、自分のこととして、考えてみましょう。