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第6課 偉大な教師からのさらなる教訓 伊藤裕史
1.安息日午後
今週はイエス様の救い主としての働きから学んでいきたいと思います。
皆さんはこれまで、とりかえしのつかないことをしたことはありますか。私はあります。そしてその時にもどってやりなおせるならやり直したいと思うのです。その時のことを思い出すと、今でも嫌な気分になります。聖書の中にはそんな人がたくさん出てきます。その一番はアダムとエバかもしれません。アダムもエバもやり直したいと思っているでしょう。しかしアダムとエバの体験は、私たちの体験でもあるのです。だれもがそのような体験を持っていて、だれもが罪深いのです。キリスト教の教育は、そのような私たちに真の解決方法を伝えるものでなくてはいけません。だからただ一つの解決方法である「救い主イエス」を伝えなくてはいけないのです。
2.日曜日:隠れる代わりに
道に迷ってしまったときに、最初に考えなくてはいけないことは何でしょうか。最初にしなくてはいけないことは、私たちは「どこにいるのか」ということを確認することです。そして一番してはいけないことは、自分がどこにいるのか分からずに自分の思いで歩き始めることです。それは罪によって迷った時も同じです。
創世記3章にあるアダムとエバが最初に罪をおかしてしまった出来事は、ほんの小さな思いから始まった小さなことのように思えます。起こったことは、ただ木の実を取って食べたということではありませんでした。神様のみことばに従わないで、自分の思いに従うということにつながることだったのです。これは「私は自分の神になれる」という間違った道への一歩です。だからアダムとエバは神様の用意された道からはずれて、迷ってしまったのです。しかしアダムとエバはもっといけないことをしてしまいました。神様が近づいた時にかくれてしまったのです。だから神様の「どこにいるのか」という呼びかけは、アダムとエバの今いるところはどこなのか、まよって神様からはなれているということを知ってもらう呼びかけだったのです。
ローマ5:11-19の聖句は、まよっている私たちへの「どこにいるのか」という神様の呼びかけといっしょです。せっかくイエス様が呼びかけてくださっているのに、皆さんはかくれたままでいますか。それとも「ここにいます」とイエス様のまえに出ていきますか。イエス様の呼びかけに気がついた皆さんはどこにいくのでしょうか。
3.月曜日:逃げ回って
罪に迷いながら、それでも私たちが神様から逃げまわるとき、どんなことが起きているでしょうか。
創世記28:10-17は、ひどいことをして家族からにげているヤコブの物語です。ヤコブは自分のしたひどいことで何も希望をもつことができずに逃げまわっていました。しかし、ヤコブは階段が地上から天へと伸びていること、そしてその階段を神様の天使たちが上がったり、下ったりしていることを見るのです。そして神様の声を聞くのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)
ヤコブは逃げて迷っていました。自分から神様のもとからはなれてしまったのです。この時何が起きていたのか。ヤコブが逃げているにもかかわらず、神様は約束を守ろうとされ、天使たちをつかわして働いておられるのです。私たちもいっしょです。神様はすべての人を救うご計画をたてられ、ご自身で、そして天使たちや教会をつかって、この約束をいまも行っておられるのです。ヤコブの「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(同16節)という言葉は、迷っている私たちが最初に気がつかなくてはいけないことなのです。
4.火曜日:先生イエス
私たちは月曜日で見てきたヤコブのように、神様が働いてくださっていることに気がついていません。だから神様は地上に見える姿、人間として姿を見せられたのです。それがイエス様でした。イエス様は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。聖書の時代から現代にいたるまで、神様のことを伝えてきた人はたくさんいます。しかしどのような素晴らしい教師としての力をもった人であっても、イエス様より神様のことを伝えるのにすぐれた人はいません。なぜなら、イエス様自身が神様であり、すべてのことを知っておられるからです。それだけでなくどんなこともできるお方だからです。そうであるならば、皆さんはだれから教えていただきたいでしょうか。私はイエス様から教えていただきたいと思います。イエス様はそのために来られているからです。
5.水曜日:女が言い返す
私たちのために来られたイエス様に教えていただくのに遠慮することはありません。ティルス地方出身の異邦人(カナン)の女とイエス様の物語を読んで見て下さい(マタイ15:21-28、マルコ7:24-30)。
女は自分の娘を悪霊から救ってほしいと思い、イエス様に願い出たのです。この時弟子たちはこの女を追い出そうとしています。女がイエス様に願うのにはふさわしくない時と思ったからです。当時の文化的な問題があったのかもしれません。この時にイエス様に願うことは失礼なことだったのかもしれません。だからイエス様でさえ女の願いを断ろうとしています。
しかし、女はそれにもかかわらず願い続けます。その姿に対してイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と願いを聞いてくださったのです。女はイエス様のことわる姿の中にも、イエス様の本当の姿を見て、願い続けることをしました。素晴らしいことです。
イエス様は私たちのための教師としてこの地上に来てくださいました。イエス様から学ぶべきことは「教え」だけではありません。イエス様の歩み、行い、生活、…。どんな時も学ぶことができます。私たちが神様から怒られている時でもです。弟子は先生のすべてを見て学ぶ人のことです。私たちはキリストの弟子なのです。どんな時でもイエス様を見ること、そこから学ぶことが大切なのです。
6.木曜日:それを理解した生徒
イエス様の姿から学ぶことは大切なことです。しかし私たちが神様の思われるように学びができていないことのほうが多いのです。なぜなら、私たちは自分の願いをとおしてイエス様から学ぼうとするからです。イエス様のもっとも近くで学んでいたのは弟子たちでした。でも弟子たちは自分の思いをかなえてくれる王としてイエス様を見ていました。だからイエス様の本当の姿が分からなかったのです。
目の不自由なバルティマイも同じでした。(マルコ10:46-52)バルティマイは目が見えるようになりたかったので、イエス様に目が見えるようになりたいと願ったのです。しかしイエス様が地上に来られたのは私たちが霊的に見えることになることでした。だからイエス様はバルティマイの目を見えるようにしただけでなく、霊的にも見えるようにされたのです。バルティマイはこのことがわかったのでしょう。だからバルティマイは見えるようになった時、自分の願いをこえてイエス様に従うようになったのです。
イエス様は私たちの願いを聞いてくださいます。それは神様との関係の入り口にすぎません。入り口は本当に大切なところへ行くためにあります。そこで立ち止まらずに、もっと成長していかなくてはいけないのです。教育とはそのためにあるのです。
7.金曜日:さらなる研究
私たちは生きています。生きるということは呼吸するということだけでなく、成長することなのかもしれません。弟子とは先生のもとで成長する人のことです。皆さんは自分の姿を見て、もしかすると自分は成長していないと感じることがあるかもしれません。でもエレン・G・ホワイトは「イエスに近づけば近づくほど、ますます多くの欠点が見えてきます。それは、自分の目が一層開かれ、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす聖霊の力が働いている証拠です。」(『キリストへの道』改訂3版文庫版91p)と言っています。自分の足りない姿をしっかりと見つめるときが成長の機会なのです。そして、それでもイエス様を喜ばせたいと願う時に、私たちは神様にあって成長するのです。