安息日学校部

第6課 聴覚しょうがい者用 吉村 忍

2025年第1期「神の愛と正義
PDFダウンロードルビ・画像付きはこちらからご覧ください

第6課  神の正義の愛    吉村 忍

1.安息日午後
[暗唱聖句] むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。(エレミヤ9:23、新共同訳)

聖書の神様は、古代世界の神々とは全く異なったお方です。不道徳で残虐なことを行う偽りの神々に対して、聖書の神様は正義の神様であり、私たちのことを心にかけてくださるお方です。

2.日曜日:愛と正義
聖書全体を通じて、愛と正義は切り離せません。真の正義は愛によってのみ統制され、愛においてのみ行われます。詩編33:5には、「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみで満ちている。」と記されており、神が正義を愛されるお方であることがわかります。※冤罪によって苦しんでこられた方のニュースを耳にする時、私たちの心はとても痛みます。神は、正しい裁き(正義)がこの世で行われることを深く気にかけておられます。
※冤罪:犯罪を行なっていないのに、有罪の判決が確定されること

3.月曜日:神は完全に善であり、正しいお方
聖書は、神が完全に聖く、誠実で、正しく、愛情深いお方であると教えています。申命記32:4「主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方。」
詩編92:16「・・・わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。」
神だけが常に、愛情深く、正しく、公正なことをなさるのです。神は決して間違ったことをなさいません。
私たちは、このような神様を信頼して日々を歩むことができるのです。なんと幸いなことでしょうか。

4.火曜日:神の変わらぬご性質
マラキ3:6で神は、「まことに、主であるわたしは変わることがない」と明言しておられます。この箇所を読んで、神はいかなる点においてもお変わりにならないという意味に受け取る人もいますが、この節の残りの部分と直前の文脈から、ここで断言されている神の不変性は、神の道徳的不変性であることがわかります。この節の残りの部分は、神が関係性において変化される可能性があることを示しています。なぜなら、神は「あなたたちはヤコブの子らにも終わりはない」と言い、その次の節で、「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」(マラキ3:7)とご自分の民に宣言しておられるからです。

5.水曜日:神は後悔されるのか
指導者モーセが不在(いない)の時に、イスラエルの民は金の子牛を造り、偶像礼拝の罪を犯してしまいました。
その時、指導者モーセは「・・・どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」(出エジプト32:12)と、神様に向かって訴えました。指導者モーセが神様に執り成した結果はどうなったでしょうか? 聖書には、次のように記されています。「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」(出エジプト32:14)
神は、もし人々がその悪から離れるなら、ご自分が計画された裁きを思いとどまると約束しておられます。
人間の悔い改めに応えて、神が裁きを下すことをおやめになるというのは、聖書全体を通して見られる共通のテーマです。

6.木曜日:愛と正義を堅く守る
ホワイト夫人は、『各時代の希望』下巻287ページに次のように記しています。「大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである、義とあわれみは両立しない、もし律法を破ったら罪人はゆるされることは不可能だと宣言した。」「神の愛は、あわれみのうちにばかりでなく義のうちにもあらわされた。義は神のみ座の基礎であり、神の愛の実である。」(同289ページ)「もし律法を変えたり、廃止したりすることが可能であったら、キリストは死なれる必要はなかったのである。」(同289ページ)
イエス・キリストの十字架において、神の愛と義が最も明らかに示されました。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:25)「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)

7.金曜日:さらなる研究
「神のみ言葉は、神のご性質をあらわしています。神はみずから、ご自身の限りない愛と憐れみについてお語りになりました。モーセが『どうか、あなたの栄光をお示しください』と言ったとき、神はそれに答えて、
『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ・・・る』(出エジプト記33章18、19節)と言われました。これが神の栄えです。神はモーセの前を過ぎて、『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐深く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦(し)』(出エジプト記34章6、7節)、『忍耐深く、慈しみに富み』(ヨナ4章2節)、『慈しみを喜ばれる』(ミカ7章18節)者であるとおっしゃいました。(『キリストへの道』改訂第三版文庫版、9ページ)。