安息日学校部

第6課 聴覚しょうがい者用 吉村 忍

2023年第2期「三つの宇宙的メッセージ

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第6課  裁きの時 吉村 忍

 

1.安息日午後

神の裁きの火は、カルバリーのキリストの上で燃えつきました。キリストにあるすべての者たちは、キリストの翼の下にいる限り永遠に安全です。キリストが犯罪人の一人として裁かれたので、私たちは永遠の死に至らせる滅びの火から自由になることが可能となりました。

 

2.日曜日:聖所の清め

罪によって汚された聖所を清めるために、年に1度、大祭司が至聖所に入って奉仕をしました。その日は「贖罪の日」と呼ばれ、ユダヤの暦で7月10日でした。大祭司は、イエス・キリストを象徴していました。

「贖罪の日」に、2頭の山羊のためにくじを引き、1頭をキリスト、もう1頭はアザゼル(悪魔)をあらわすものとしました。大祭司はキリストをあらわす山羊をほふり、その血を持って至聖所に入り、十戒が入っている箱の上に注ぎました(レビ記16章に基づく)。至聖所をから出てきた大祭司は、アザゼル(悪魔)を代表する山羊の頭に手を置いて、すべてのイスラエル人の罪を告白し、罪を山羊に移し、荒野に放ちました。すると、その山羊は戻って来ませんでした。この行為は、象徴的に罪が取り除かれたことを意味していました。

毎年7月10日には、すべてのイスラエル人が聖所のまわりに集まり、自らの罪を悔い改め、罪のゆるしを求めました。その日は、とても厳粛な日でした。悔い改めた一人一人の罪は、聖所から完全に取り除かれました。

「彼は言った、二千三百の夕と朝の間である。そして、聖所は清められてその正しい状態に復する」(ダニエル書8:14、口語訳)。「清められる」の原語「ニツダク」は、「義と宣言される、正しさが証明される(疑いが取り除かれる)と訳することができます。「審理し、無罪とし、救済する」ということです。ダニエル書8:14の意味は、神様の御名があがめられ、神様を信じてきた民の正しさが明らかにされるということです。

 

3.月曜日:2300日と終わりの時

ダニエル8章で、天使ガブリエルは2300日の預言の説明を始めています。ガブリエルは、雄羊はメディアとペルシャの王、雄山羊はギリシャの王であると名前を挙げています(ダニエル8:20、21)。次の勢力である小さな角は、異教ローマと教皇制ローマをあらわしています(同8:9、23、24)。「・・・真理を地になげうち、思うままにふるまった」(同8:12)とありますが、これは異教ローマと教皇制ローマに神様の御言葉に反する言動が見られるということを示しています。ダニエル8:14の聖所の清めは、この章のクライマックスであり、神の権威を奪おうとする地上の宗教的勢力の挑戦に対する神の答えです。また、これは、罪の問題に対する神の聖なる解決策の一部です。

天の聖所の清めについて

1)地上の聖所が清められたように、天の聖所でも記録された私たちの罪が清められなければなりません。

2)聖所を清める働きは、記録の書を調べることから始まります。再臨前審判は、1844年から始まっています。

3)再臨前審判の終わりに、イエス・キリストは悪のすべての記録を取り除いた後、地上においでになります。

 

4.火曜日:ダニエルに対する天使の告知

ダニエル書9:24「あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。」

天使は、ダニエルに、「時」に関することを告げました。ダニエル書9:24は、どのような意味なのでしょうか?「あなたの民」とはユダヤ人のことを指し、「あなたの聖なる町」とはエルサレムのことです。70週は、ユダヤ人が神様に従うことができる特別な猶予期間のことです。

ダニエル書9:24の「定める」は、原語のヘブル語では「大きなものの一部を切り取る」

という意味があります。つまり、2300日(2300年)の預言の中に70週が含まれていると言うことです。預言における「1日=1年」の原則を適用しますと、70週は490日ですので、490日は490年となります。

 

5.水曜日:「断たれる」メシア

エズラ記7章に記されていますアルタクセルクセスがエルサレム再建命令を出した紀元前457年の秋が、2300年の預言の起算点になっています。エルサレム再建命令が出された紀元前457年から69週(483年)後の西暦27年に、イエス・キリストはバプテスマを受けられ、公生涯にお入りになりました。ルカ3:23によると、イエス・キリストが公生涯にお入りになられた

時に年齢は30歳です。

ダニエル書9:27の「一週」は、7年のことです。「その週の半ば」とは、「半週」ですから3年半のことです。イエス・キリストがバプテスマを受けられてから3年半になる西暦31年に、イエス・キリストは十字架につけられました。

ダニエル書9:24~27には、イエス・キリストについて記されています。

1)イエス・キリストの十字架の犠牲の死の時期が予告されています。

2)イエス・キリストはご自分の罪のためではなく、人類の罪の身代わりとして十字架にかかってくださいます。

3)地上の聖所の奉仕を廃止なさいます。(十字架によって、象徴としての動物の犠牲をささげる儀式が終わりました)

 

6.木曜日:1844年

2300年の最初の490年間はイエス・キリストの初臨に当てはまり、西暦34年に終わりました。

2300年から490年を差し引くと1810年が残ります。1810年は神の民に当てはまります。西暦34年を起点として1810年を加えると1844年になります。

1844年から、天ではイエス・キリストによる罪の最終的な除去の働きが始まっています。罪が消し去られるために必要不可欠なことは、その人がイエス・キリストを個人的な救い主として信じ、真に罪を悔い改め、イエス・キリストにすがることです。

レビ記23:26~29をお読みいただきたいと思います。イスラエルの民は「身を悩ま」(レビ記23:27、口語訳)さねばなりませんでした。この表現は、大祭司が地上の聖所を清めたように、彼らが身を低くし、心を調べ、罪を告白し、悔い改め、神に自分たちを清めてくださるように求めなければならなかったことを示しています。

 

7.金曜日:さらなる研究

木曜日の内容に関連して、エレン・G・ホワイトの言葉をご紹介いたします。

「われわれは、今、大いなる贖罪の日に生存している。型としての儀式においては、大祭司がイスラエルのために贖罪をなしている間、すべての者は、主の前に悔い改め、心を低くすることによって、身を悩まさなければならなかった。もしそうしなければ、彼らは民の中から絶たれるのであった。それと同様、自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願う者はみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。」(『各時代の大争闘』下巻、p.224)

今、私たちは厳粛な時代を歩んでいます。イエス・キリストのご再臨を私たちの最大の望みとして、日々、主に会う備えをさせていただきたいと思います。「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。」(コリント第一、16:22、口語訳)