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第5課 約束の子どもたち 柴田 寛
1.安息日午後:今週のテーマ
最初に、海で遊んでいて沖に流されてしまった親子の話が出てきました。助けを呼びにもどった父を信じ、10歳の娘は4時間も浮いたまま待ち続けたそうです。この驚くような話から、父(神様)の約束を信じるという生き方がもたらす強さと、そのすばらしい結果について考えましょう。
2.日曜日:あなたの盾
主は、アブラハムに、「わたしはあなたの盾である」と言われました(創世記15:1)。なんて心強い言葉なのでしょう! でもこれは、神を信じる者は事故にあわず、病気にもならない、という意味ではありません。それらよりももっと重要なこと・・・つまり、キリストの「とりなし」(罪人である私たちが受けるはずの裁きを、キリストが代わりに受けて下さること)によって、罪のドロ沼から自力では這い出せないでいる私たちを引き上げ、救って下さることを意味します。病気や怪我からの一時的な回復ではなく、死も涙もない、永遠の命へと導いて下さるのです。
3.月曜日:メシアの約束:パート1
主は、アブラハムに複数回にわたって「あなたの子孫によって、地上のすべての国民が祝福される」と言われました。これは聖書の中で、もっとも大切な「約束」です。ここで言う「あなたの子孫」とは、直接的には「ユダヤ民族」を指します。しかし、究極的には、そのユダヤ民族から生まれてくる「イエス・キリスト」を指しています。
キリストは、文字通り、「すべての国民」の救いのために十字架にかかられました。つまり、このキリストを信じ、受け入れる人は、ユダヤ人も異邦人も区別なく、共に祝福されるのです。すばらしい約束ですね!
4.火曜日:メシアの約束:パート2
ガイド38ページには、1500年以上も前に活躍したキリスト教神学者の1人、アウグスティヌスが書いた「人間の状態」についての長い文章が引用されています。これを読むと、昔も今も、人間とそれをとりまく世界は何ひとつ変わっていないのだ、と知らされます。この原稿を書いている今、ただでさえコロナで毎日、多くの人たちが亡くなっているのに、ミャンマーでは軍による市民への虐殺がおこなわれ、さらに多くの不幸が積み重なっています。アウグスティヌスも言っていますが、こんな私たちに、「逃れの道」はあるのでしょうか?
幸いなことに聖書には、この状況とは真逆の世界、すなわち“死も涙もない世界の実現”が約束されており、ゆえに、その実現を信じる人たちの未来は明るい! と言うことができます。第一コリント2章9節には、「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と約束されています。私たちの目に見える世界は、罪の毒に満ちていますが、神様は誰も見たことも聞いたこともないすばらしい世界を約束してくださっているのです。そのまだ見ぬ世界の実現を、アブラハムと同じように信じ、希望ある「アブラハムの子孫」として生きていきましょう!
5.水曜日:大きな強い国民
主はアブラハムを、「大きな強い国民」にすると言われました(創世記18章18節)。それはアブラハムよりもずっと後の、モーセの時代になって、完全ではありませんが実現しました。アブラハムの子孫が、エジプトにおいて増え広がり、「大きな国民」となったのです。しかし、その時はまだ奴隷でしたので、決して「強い国民」とまでは言えません。では、文字どおりの「強い国民」には、いつなったのでしょうか? それはエジプトを脱出したあと、紅海を渡り、荒野を放浪してからでした。イスラエルの民は、失敗を繰り返しながらも、神の驚くべき力を何度も体験し、周辺の神様を知らない人たちに生ける神の存在を知らせ、恐れさせました。
ペトロ第一の手紙には、神様がアブラハムの子孫(約束を信じる人たち)を通してなさろうとしていることが、ハッキリと記されています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペトロ第一 2章9節)
これこそ、アドベンチスト教会がたてられた目的です。忘れてはならないのは、「大きな強い国民とする」というこの言葉も、アブラハムの子孫に対する「約束」である、ということです。教会が信仰をもって前進したとき、完全に実現するのでしょう。
6.木曜日:「あなたの名を高める」
創世記12章2節に記された約束は、「あなたの名を高める」というものです。これは、この地上で有名になるというような、ちっぽけな話ではなく、宇宙規模の、しかも永遠にわたって語り継がれるという、とてもスケールの大きな話です。ヤコブの手紙には、アブラハムに与えられた栄誉ある呼び名が記されています。「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブの手紙2章23節)
アブラハムは聖書中でただ1人、名指しで「神の友」と呼ばれた人物です。イザヤ書41章8節では、「私の愛する友」とまで言われています。なんとすばらしい呼び名でしょう! アブラハムが神様からこのように呼ばれた理由はた1一つ、信仰によって主と永遠の友情を結んだからです。
テキスト40ページには、「私たちには神の恵みの受け手として、なすべき役割があります。わたしたちの自由意志がその鍵になります。」と記されています。
これは、恵みの受け手である私たちに期待されている、とても大きな役割です。なぜなら、神とサタンとの間では、この世界の主権(だれを王と認め、だれを礼拝するか)をめぐる闘いが続いており、その決着は、私たちの表明次第だからです。そのような中、私たちが、サタンではなく神を信じ、神に信仰を表明するなら、神に栄光を帰すことになり、もしそうするなら、神はかわりに「私の愛する友」と呼んで私の名を高めてくださるのです。
7.金曜日:さらなる研究
信仰によって、アブラハムの霊的な子孫になることは、私たちの未来に希望を与え、日々の暮らしに落ち着きと平安をもたらします。最初の例話にあったように、父の約束に完全に信頼する者は、海の上を漂うことがあっても恐れ知らずでした。イエス様とそのような信頼関係をむすぶことができるよう、イエス様を知ることを、これからも追い求めてまいりましょう。
【話し合いのための質問】
今週の暗唱聖句、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)は約束でしょうか? あなたはこの約束を信じることができますか? この約束を本気で信じた時、「私」に、また「教会」に、どのような驚くべき結果が生じると思いますか? クラスで話し合ってみましょう。