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第5課 安息の与え主イエス 吉村 忍
1.安息日午後
今回、聖書の真理の一つであり、私たちセブンスデー・アドベンチスト教会員としては、とても重要な意味を持つ安息日について学ばせていただけますことを感謝いたします。
ヘブライ人への手紙3章と4章は、イエス・キリストを私たちに安息を与えるお方として描いています。この安息は、イエス・キリストが神の右の座につかれる時、現在の私たちもあずかることができるものです。
私たちは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20:8)の御言葉にしたがって、毎週、安息日を覚えることは重要なことですが、真の安息日遵守は覚えること以上の行為です。それは、この不完全な世界にあって、神が約束しておられる未来を前もって味わうことなのです。
2.日曜日:安息の場所としての約束の地
カナンは、国を離れ、約束の地に行きなさいとの神様の御声に聞き従った父祖アブラハムに神様が約束された嗣業でした。神様は、アブラムにイスラエルの民が400年、エジプトで奴隷として寄留することと、その後のエジプト脱出について約束されました(創世記15:13~14)。神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出されたのは、イスラエルの民をカナンの地に導き入れる目的があったからです。安息の場所としての約束の地がカナンでした。
聖書は、安息日には二つの記念があることを教えています。
① 創造の記念(出エジプト記20:8~11):神様は6日間で世界を創造なさいました。私たちは創造者、統治者としての神様に礼拝をおささげいたします。
② 贖いの記念(申命記5:12~15):神様は、安息日は創造の記念としてだけではなく、エジプトからの贖いの記念として守るように命じられました。私たちは、罪の奴隷からの解放を与えてくださるイエス・キリストに礼拝をおささげいたします。
3.月曜日:不信のために
ヘブライ3:19「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」
イスラエルの民のカナンまでの旅路を読む時、私たちはイスラエルの民が何度となく神様の力を実際に見、養われ、守られ、助けられてきたにも関わらず、なぜ何度も神様につぶやき、反抗し続けたのだろうかとの疑問を抱きます。
エレン・G・ホワイトは、『人類のあけぼの』上巻、338ページにこのように記しています。「イスラエルの荒野生活の歴史は、世の終わりの神のイスラエル人の益のために記録された。荒野の放浪者達があちらこちらへさまよって、飢え、渇き、疲れた時に、彼らの救済のために神の力が著しくあらわれたことなどの神の行為の記録は、すべて各時代の神の民に対する警告と教えに満ちている。ヘブル人の色々な経験は、彼らがカナンの約束の地へ入るための準備の学校であった。神は今日の神の民が、古代イスラエル人の経験した試練を、へりくだった心と教えを受ける精神をもって振り返り、天のカナンに入る準備に役立てるように望んでおられる。」
ヘブライ3:12~15を祈りのうちに学び、心に留めたいと思います。神の忠実なしもべとして、この最終時代を歩んでいきたいと思います。
4.火曜日:今日、あなたたちが神の声を聞くなら
ヘブライ3:15に、「・・・今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」と記されています。ヘブライ4:7には、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」と記されています。
ヘブライ3:15と4:7の御言葉を理解するために、詩編と出エジプト記を見てみたいと思います。詩編95:7~9に、「・・・今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない。あの時、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。』」と記されています。
メリバとマサでの出来事は、出エジプト記17:1~7に記されています。イスラエルの民は飲み水がなかった時に、モーセに向かって不平を言い、疑いと不信を心に抱きました。エレン・G・ホワイトは、「主は、彼らが神に向かってつぶやいたために、彼らが敵の攻撃にさらされるのをおゆるしになった。」(『人類のあけぼの』上巻、346ページ)と記しています。
私たちにとって、ヘブライ3:15と4:7の御言葉は厳粛なメッセージです。
「今日」という日は、二度とありません。今日、謙虚に神様の御声を聞き、神様が教えてくださったことを忠実にさせていただきたいと思います。
5.水曜日:神の安息に入る
水曜日の箇所で取り上げられている「安息」が意味するところは、カナンの地における平和を示す場合もあれば、契約の箱が安置されている神殿のことや、安息日を指す場合もあります。
ここで私たちの心に留めたいことは、神様が私たちアドベンチスト信徒に約束しておられる「最終的な安息」についてです。「最終的な安息」とは、キリストとサタンの大争闘が終わりを告げた後、私たちのために神様が創造なさる新しい世界です。私たちは、その日を待ち望んでいます。ヘブライ人への手紙は、神様が創造なさる新しい世界のことを「天の故郷」(ヘブライ11:16)と呼んでいます。私たちは、やがて「天の故郷」を私たちの住まいとして、そこで安息日の休みを経験するのです。これは、なんと素晴らしい約束でしょうか!
6.木曜日:新たな創造を先取りする
イエスが人となられ、肉体のある人間のところへ来られたもう一つの理由は、私たちが神の前に正しい生き方をするための唯一の模範となるためでした。特にヘブライ12:1~4でパウロは、イエスのことを「信仰の創始者また完成者」と呼んでいます。イエスは、人生という競走を立派に走り抜けた最初のランナーであり、信仰によって生きることをやり遂げた方でした。イエスは、常に神を信頼し、神の約束を信じて歩まれたのです(ヘブ1:13、10:12、13)。同じ約束が私たちにも与えられています(ロマ16:20)。どんな時にもイエスと同じように、神を信じて歩んでいきましょう。
7.金曜日:さらなる研究
以前、ライフ誌の「きょうの光」に掲載されていました「気がつかずに」という詩をご紹介いたします。この詩を通して、私たちの望みである御国での安息日を心にとめたいと思います。
「気がつかずに」
気がつかずにこの地上で最後の安息日を迎えるとしたら、
その次の安息日を私たちは天国で迎えることでしょう。
もっともすばらしい日です。
その日、私たちはみ国において
命の水の川のほとりで、
命の木の実の輝きを見上げます。
夢にまで見たいと思っていたイエス様の優しいお顔がいま目の前にありました。
着たことのない輝く栄光の衣が、いま私たちの体を包んでいます。
額にいばらの傷のある方が、釘あとのある手で、私にも冠をかぶせてくれました。
ズシリと重い冠でした。
聖書に書いてあった通りの言葉で、その方が言われました。
「私の父に祝福された人たちよ、さあ世の初めから用意されているみ国を受けつぎなさい」
「良い忠実なしもべよ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」
金の鈴が鳴るような、静かでやさしいお声でした。
安息日のために戦ってきたみんなが、
みんながそこに来ていました。