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第5課 裁きという良き知らせ 関谷 修一
1.安息日午後
ヨハネの黙示録14章6-7節には、一人の天使をとおして「永遠の福音」という素晴らしい知らせが全世界、すべての人々へ宣べ伝えられることが書かれています。
この「永遠の福音」のなかには、「神の裁きの時」という言葉が含まれています。誰の裁きの時でしょうか?「神の裁きの時」です。全ての被造物が、神の善きわざを知る時です。
今週は、この「神の裁きの時」というものがどんなに素晴らしい知らせであるかということについて学びます。
2.日曜日:裁きの時の意味
1844年に2300の朝夕の預言が成就して以来、神の裁きの時が始まっています。「神の裁きの時」とは、現在おこなわれていて、イエスが来られる前になされる裁きのことです。「調査審判」とか「再臨前審判」と言ったりします。この裁きをとおして神は私たちを救い、十字架へと導くために可能な限りのことを成し遂げられたことを明らかにされます。詩編記者の「あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません」(詩編51:6)という告白が確かであり、間違いないことが全宇宙に証明される時となります。
3.月曜日:神のあわれみと裁き
この裁きは、イエスが十字架により惜しみなく与えてくださった贖罪の愛と神の正義とを明らかにします。イエスが私たちを救うために、可能なすべてのことをして下さったことが確認されていきます。そして、私たちがこの恵みにどのように応答したか、選択していったかということについても同様です。
私たちが救われるのは、十字架に架かられたイエスを信じる信仰によってのみです。聖霊によって与えられた私たちの善い行いは、私たちの救いとはなりません。しかし、その行いはイエスを信じたことの証となり、多くの人々を救いの神へと導きます(マタイ5:16)。
4.火曜日:荘厳な光景
ダニエル7章は、この地上の混沌と争いから、天上の玉座と法廷の光景へと私たちの目を導き移します。非常に荘厳厳粛な全人類の運命が決定する裁きの光景です。そこでは、裁きのために仕え、証人となる天使たちと共に「かずかずの書き物」が開かれています(ダニ7:10、口語訳)。そして、裁きの最終的な結果として神の正しさが擁護され、イエスが全宇宙の統治者として御国を回復されます(ダニ7:13-14)。権力や富、狡猾さではなく、天では愛が力を持って支配します。不正が倒れ去り、正義が勝利します。イエスが王権を受けられることで、気の遠くなるような年月に及んだ長い闘いは間もなく終わろうとしています。
5.水曜日:天を垣間見る
私たちは黙示録という天の開かれた門から、そこでおこなわれている永遠の救いの計画を垣間見ることもできます(黙4:2-4)。裁きの場には神の玉座があり、その周りには24人の長老たちがいます。これは天の法廷の場面です。24人の長老とは、やがて神の玉座の周りで救いを喜ぶ贖われた人たち、あるいは、イエスが復活された時によみがえり、共に天にあげられた人たち(マタイ27:52)を表していると思われます。何と励まされることでしょうか。天の法廷には、神の周りにイエスを信じて贖われた者たちがおり、彼らも加わって裁きがおこなわれているのです。そこでは彼らによって主への讃美が捧げられています。「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしいかた」(黙4:11)と。イエスこそ、王国を受けるにふさわしい方です。
6.木曜日:イエスこそふさわしいお方
ヨハネの黙示録5章1-3節では玉座が再び登場し、封印で閉じられた裁きの巻物が紹介されます。天にも地にも誰もその巻物を開くことのできる者がいないので、天の住人たちは不安に震えました。ヨハネは泣いています。しかし、そこに罪の問題の最終解決者:「屠られたような子羊」イエスが進み出て、裁きの巻物を手に取って開かれました。そして全天に歓喜の賛美が鳴り響きます。
私たち人間の目にイエスは、十字架に架けられた「屠られた子羊」であり、とても弱く、力ないものとして映ります。しかし、神の目から見るならばこの方は、「ユダ族から出た獅子」(黙5:5)、百獣の王のように君臨される全宇宙の勝利者イエスです。このイエスが、私たちのためにずっと裁きの場に立ち続けてくださっています。目に見えるものだけがすべてではありません。この方をいつも選び続けることができるように、イエスとの生きた関係を日々大切にしましょう。
7.金曜日:さらなる研究
「キリストに従う者たちは、罪は犯しましたが、悪の支配に身を明け渡していません。彼らはその罪を捨て、へりくだりと深い悔恨のうちに主を求め、天の助け主は彼らのために嘆願しています。彼らの忘恩によって最も虐げられたお方、彼らの罪と、彼らの悔い改めをも知るお方がこう宣言されます。『サタンよ、主はお前を譴責される。「わたしはこれらの魂のために命をささげた。彼らはわたしの手のひらに刻まれている」』」
(『教会への証』第5巻473、474頁、英文)。
※「裁き」と聞くと「恐れ」ばかりに満たされてしまうことはありませんか。なぜ、「裁き」が「福音」なのか話しあってみましょう。