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第5課 十字架以前の復活 花田 憲彦
1.安息日午後
先週は、旧約聖書に見られる復活の希望について学んできましたが、イエス様が復活される以前にも、実際に死者がよみがえったという記録が聖書の中にあります。死んだ人が生き返るという話をすると、「イエス・キリストの言っていることは素晴らしいと思うが、復活なんてそんなことはゾンビ映画みたいで信じられない」とおっしゃる方がよくいらっしゃいます。イエス様は復活を信じない人々に対して、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」(マルコ12章24節、口語訳)と言われました。確かに人類は、私たちの肉体については様々な研究を重ね、驚くべき発見をしてきました。しかし、体については知っているけれども、新しい体によみがえるということを信じることができないのは、「聖書も神の力も知らないからだ」と、主は言われたのです。私たちの人生が、本当に新しい意味で生まれ変わるのは、聖書と神の力を知る時です。今週は、イエス様の十字架以前に実際に起こった復活の出来事を、信仰の目をもって学んでいきたいと思います。
2.日曜日:モーセの復活
申命記34章には、モーセが120歳で息を引き取った場面が記録されています。しかし神様は、モーセをよみがえらされました。ルカ9章28節~36節には、変貌の山の出来事についての記述があります。この時、モーセは死を見ずに天に移された預言者エリヤと共に現れました。モーセは、罪と死に対するキリストの勝利の証人として用いられました。モーセは、主の再臨の時に死者の中からよみがえる義人を代表し、エリヤは、再臨の時に地上に生きていて、死を経験することなく天にあげられる義人を代表していました。モーセの復活を通して、未来の栄光の王国が縮図で示されたのです。
3.月曜日:旧約聖書の二つの復活
エリヤとエリシャが預言者として働いていた時、死んでしまった2人の少年の命がよみがえるという奇跡が起こされました。最初の少年は、異教の女王イゼベルの故郷であったフェニキアの港町シドンの貧しいやもめの息子でした。もう一人は、エズレルの谷近くの村シュネムにいる裕福な夫人の息子です。「この2つの事例は、精神的に打ちのめされた母親たちの人生に慰めと希望をもたらし、何よりも死に打ち勝つ神の命を与える力を示しています」(『再臨と死者の復活そして悪の終焉』40ページ)。2人の少年の母親たちは、背景は違っていましたが、どちらも確かな救いの信仰をもっていました。私たちも、復活という希望の信仰を持ち続けたいと思います。それは決して裏切られることのない希望であり、終わりの日に必ず成就する主の約束なのです。
4.火曜日:ナインのやもめの息子
イエス様は地上での公生涯において、「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが」(使徒10章38節)、少なくとも3人を生き返らせました。1人はガリラヤの町ナインのやもめの息子でした。私たちはこの奇跡の背後に、イエス様の憐れみの心を見ることができます。「フェニキア人のやもめとシュネムの婦人は、それぞれエリヤとエリシャに助けを求めました。しかし、ナインのやもめは願うことさえせずに助けられました。これは、私たちが神に助けを求めることができないとき、あるいは求めても無駄だと感じるときにも、主が私たちを顧みてくださることを意味します。イエスは問題をご覧になると対処されました。――それはあらゆる働きにおいて、いかにもイエスらしいことでした」(SSガイド38ページ)。
5.水曜日:ヤイロの娘
イエス様は亡くなっていた少女に関して、人々に「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」(ルカ8章52節)と言われ、少女をよみがえらせました。この奇跡を目撃し、それを信じた多くの人々は、「驚きのあまり我を忘れた」(マルコ5章42節)ほどの恵みを味わいました。一方で、批判的なパリサイ人たちは、「この子は死んでいたのではない。イエスが言われたように眠っていただけだ」と、イエス様の奇跡を否定しました。批判的な精神というのは、神の御業の本質を見えなくしてしまいます。主が素晴らしい御業を見せてくださっているのに、不信仰がその御業を見えなくしてしまうということは、私たちの信仰生活の中にも起こりうることです。
6.木曜日:ラザロ
ヨハネ11章には、「キリストの最後の、かつ最大の奇跡」と呼ばれるラザロのよみがえりの奇跡が記録されています。イエス様は、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(同11節)と、ここでもイエス様は、死を「眠り」と呼ばれました。イエス様は、ラザロの遺体が腐りはじめ、ラザロが完全に死んでいることが明らかとなる4日目まで、この奇跡を行うことをあえて待たれました。ラザロのよみがえりによって、イエス様は死を打ち負かす力をお持ちであることを証明されたのです。
三大ギリシャ教父の1人であるヨハネ・クリソストモスは、キリストの死に対する力はあまりにも大きいので、ラザロの名を個人的に呼ばなければ、他のすべての死んだ義人がよみがえっていただろうと言っています。「もし、キリストが、すべての死者に命じていたら、墓の中にいるすべての者がよみがえったであろう。しかし、この時、キリストは、すべての死者を生き返らせることを望まなかった」(『再臨と死者の復活そして悪の終焉』42ページ)。
神の御言葉は、死者をよみがえらせ、新しい永遠の命を与える力があるのです。私たちは、その主の約束の言葉をそのまま信じるでしょうか。墓に眠るすべての義人は、主のご再臨の時に、この主の言葉によってよみがえることが約束されています。この言葉を聞くことができるように、日々、キリストにつながっていたいと思います。
7.金曜日:さらなる研究
神学者オスカー・クルマンは、「人が死んですぐ、天国に行くとか霊魂の不滅という考えは一般に広く受け入れられているが、これはキリスト教最大の誤解である」と言っています。「霊魂不滅」の思想は聖書の教えではありません。ギリシア思想の影響を受けたもので、サタンが作りだした欺瞞です。最近では臨死体験がブームになっていますが、「地獄や刑罰についての光景を見た」という証言はほとんどありません。甘美な、そして輝きに満ちた体験ばかりです。なぜならサタンは、人はこの地上でどんな生き方をしたとしても、死後、輝かしい世界に生きることができると信じ込ませ、人々の心に、罪に対する刑罰などないという印象を植えつけようとしているからです。第2課で学んだように、死後の状態についての聖書の言葉を確認しておくことが大切です。
- 聖書の「復活」の約束をそのまま信じることがなぜ大切なのでしょうか。この約束は、あなたの人生にどのような影響をもたらすでしょうか。